異名は「下馬将軍!」江戸幕府大老酒井忠清に囁かれる悪人説の真相 (2/3ページ)

日刊大衆

 ネタ元の史料である『武門諸説拾遺』によると、当時、すでに一線を退いていた元老中の阿部忠秋が忠清ら後輩老中らの好き勝手ぶりを聞き、彼らを自邸へ招いてこう苦言した。

「近年、貴殿(忠清)の奢りが著しくその振る舞いによって世間は下馬将軍と呼んでいるそうだ。これではまるで将軍が二人いるようなもので、上様を軽んじ、将軍家の御威光を損ねることになる。これこそが不忠の極みだと思われんか」

 しかし、『武門諸説拾遺』は江戸中期以降に成立したとされ、忠清の生きた時代の史料ではない。逆に同時代には、「下馬将軍」どころか、忠清の奢りを示す史料は確認できない。

 したがって、本当に忠清の時代に彼を「下馬将軍」と呼んでいたか定かでなく、むしろ後世になって面白おかしく、そう渾名したと考えられる。

 とはいえ、後世の人が忠清をそう呼ぶにはワケがあるはず。そこで次に宮将軍招聘問題を探っていこう。

 病弱だった将軍家綱に跡継ぎはおらず、延宝八年(1680)五月、家綱の病状が悪化した際、有力な次の将軍候補は二人いた。

 まず一人目は家綱の弟綱重の嫡男綱豊(のちの六代将軍家宣)。二人目は綱重の弟綱吉(五代将軍)だ。筋目からいうと、家綱のすぐ下の弟の綱重が最有力だが、すでに他界しており、次いで筋目としてはその子の綱豊が相応しい。ところが、綱豊はまだ若く、五代将軍は綱吉で決まりかけた。

 ところが、忠清は器量面で綱吉の将軍継承には反対だった。そこで徳川家と系図上つながりのある皇族の有栖川宮家から宮将軍を暫定的に五代将軍に据えようとした。つまり、“綱吉潰し”のために忠清は一代限りの将軍として宮将軍を京から迎え入れようとした――これが通説だ。

 事実、当時の史料(『御年代記』)も、綱吉の器量に忠清が疑問を抱いていたという話が掲載されている。近年は“犬公方”と揶揄された綱吉の政治が再評価されているものの、生類憐みの令によって当時の人々の反感を買ったのは間違いない。

 忠清による宮将軍招聘は、江戸幕府の正式歴史書『徳川実紀』に記載されており、そういう話があったのは事実だ。

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