異名は「下馬将軍!」江戸幕府大老酒井忠清に囁かれる悪人説の真相 (3/3ページ)

日刊大衆

しかし、忠清が鎌倉幕府の北条一族にならい、宮将軍という傀儡を立て、家綱の死後まで幕府の政治を牛耳ろうとしたわけではない。そのことを確認していこう。

■「悪人説」の鍵を握る宮将軍招聘問題の真偽

 まず、老中の一人、堀田正俊が推す綱吉将軍案に危篤に陥った家綱が同意して継嗣問題は決着するが、以降の出来事を時系列的に記すと、まず延宝八年五月八日に家綱が没し、八月二三日に綱吉が将軍に就任。

 そして、一二月九日、綱吉に呼び出された忠清は病気療養を理由に大老の職を免じられた。

 さらに年明け早々、「下馬将軍」と渾名される原因となる下馬札近くの上屋敷も取り上げられて、その翌月、忠清が隠居するのだ。

 こう見てくると、「器量に問題あり」として将軍就任に反対した忠清への綱吉の意趣返しとも取れるが、理由はそれだけではない。

 むしろそれは、綱吉自身が一代限りの暫定的な将軍という位置づけだったことに、その理由を求めるべきだろう。実は家綱が危篤に陥ったとき、本丸の女中が将軍の子を懐妊したという噂が囁ささやかれており、そのことは複数の史料で確認できる。

 もしその子が男児なら、筋目からいって綱吉の次の将軍の有力候補となる。そんなこともあり、暫定的な将軍であると自覚していた綱吉は前時代の色を打ち消し、できるだけ独自色を出して求心力を高める必要から、実力者の忠清を切ったのだろう。

 一方、忠清のような譜代の名門が失脚することそのものが異例であり、後世、そこに何かあると勘繰られ、忠清に宮将軍招聘の一件があったがために、興味本位で下馬将軍などの尾ひれがついたのではなかろうか。

 例の女中の懐妊の話を踏まえると、忠清はもしかすると、綱吉の器量を危惧したのでなく、彼が将軍になって女中の子が男児だった場合、六代将軍の座を巡り、必ず騒動が起きると深謀遠慮した結果、後腐れのない宮将軍を一代限りで招聘しようとしたのではなかろうか。だとしたら、彼を「悪人」と見なす解釈は是正されなければならない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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