異名は「下馬将軍!」江戸幕府大老酒井忠清に囁かれる悪人説の真相 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 江戸幕府四代将軍徳川家綱の時代の大老酒井忠清は「悪人」というカテゴリーで語られることが多い。

 なぜなら「下馬将軍」と呼ばれて家綱以上の権勢を誇り、その主君が危篤に陥るや京から有栖川宮幸仁親王を傀儡の将軍として迎え、家綱死後も幕府を思うままに操ろうとしたとされるからだ。

 特に宮将軍の一件は、鎌倉幕府で執権として政治を担った北条一族の故知にならったものだとされ、実現していれば、江戸幕府を揺るがしかねない歴史的事件となるはずだった。

 忠清は本当に、そのような悪人だったのか。宮将軍招聘問題を中心に真偽を見定めていこう。

 忠清の酒井家は西三河を発祥の地とし、伝承では徳川家と同じ祖先に行き着く。忠清は徳川家康が駿府で今川家の人質になっていた時代から仕えた正親の玄孫。

 その正親は、同じく家康の人質時代から天下取りを支えた酒井忠次(徳川四天王の一人)と同族だが、忠次の家を左衛門尉家と呼び、家格は正親の雅楽頭家が上回る。

 つまり、忠清が寛永元年(1624)に生まれた際、すでに徳川家譜代名門の嫡男として将来が保証されていたのだ。

 寛永一四年(1637)、一四歳で父忠行から上野国厩橋(群馬県前橋市)一〇万石を継承。慶安四年(1651)年に四代将軍家綱が誕生すると、その二年後、わずか三〇歳で老中となった。

 当時、老中首座(現在でいう首相格)には左衛門尉家の酒井忠勝が就いていたが、その幕政の中心人物と同列という扱いでの入閣だった。しかも、席次は忠勝より上席。すべては家格によるものだった。寛文六年(1666)には大老に昇格し、家綱の治世に彼が権勢を振るったのは事実だ。

 それではまず、「下馬将軍」という評から分析していこう。由来は、忠清の邸が江戸城大手門前の下馬札近くにあったため。下馬札は、馬に乗って来た者へ下馬するよう指示した高札のこと。その権勢を下馬札や将軍という呼称で表現したものだ。

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