「どうする家康」鳥居元忠の最期、実際はどうだった? 第42回放送「天下分け目」振り返り
会津の上杉景勝(津田寛治)を討伐するため、下野国小山まで兵を進めた「我らが神の君」こと徳川家康(松本潤)。
この機に乗じて上方では石田三成(中村七之助)らが挙兵。たちまち伏見城を攻め落としてしまいました。
伏見城を守備していた鳥居元忠(音尾琢真)らは全滅。ここに徳川・石田両雄の衝突は避けられないものとなります。
天下分け目の大戦を前に、徳川・石田両陣営は一人でも多く諸大名を味方につけようと調略合戦を繰り広げるのでした。
いざ決戦の地・関ヶ原へ。しかし嫡男の徳川秀忠(森崎ウィン)は信州上田で真田昌幸(佐藤浩市)らの足止めをくらい、遅参してしまいます。
主力を欠いた状態のまま、果たして神の君は勝つことが出来るのでしょうか……という訳で今週もお待ちかね、NHK大河ドラマ「どうする家康」。第42回放送は「天下分け目」伏見城で討死する鳥居元忠がハイライトでした。
それではさっそく、今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!
昌幸の策をはねつけた稲姫(小松姫)※家康に宣戦布告した真田昌幸
【関ヶ原合戦】ただ一人、徳川家康に宣戦布告!真田昌幸かく語りき【どうする家康】家康の軍勢から離反し、沼田城へ立ち寄った真田昌幸。加勢に来たと開門を乞うたところ、その心中を見抜いた稲(鳴海唯)はこれを拒みます。
……昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける。……
※『滋野世記』
【意訳】昌幸は次男の真田信繁(日向亘)を従えて沼田へ到着。城内へ入れてくれるよう求めましたが、真田信幸の妻(稲姫)は答えました。
「夜中にいらっしゃるとはどうしたことでしょうか。伊豆守(真田信幸)様の城を預かる妻として、たとえお義父様であろうと、たやすく城内へはお招きいたしかねます」
まったく、けんもほろろですね。
……暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし……一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。……
※『滋野世記』
【意訳】暫くすると、城門が開かれました。やっぱり入れてくれる気になったのか?と思ったら、さにあらず。
完全武装の稲姫はじめ、城兵のみならず女性たちに至るまで完全武装で出て来ます。
「お義父様は今、内府殿(家康)のお供で出陣されているはずです。お義父様の名を騙る曲者を、許す訳には参りませぬ!」
「さぁ皆の者、曲者どもを一人残らず討ち取りなさい!」
あまりの勢いに昌幸は退散。「さすがは武士の妻よ。まったく立派な嫁をもらったもんじゃわい」と感心したそうです。
『改正三河後風土記』では昌幸は「今生の別れじゃから、孫たちの顔を見せてくれんかのう(今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候)」と泣き落としを使っていますが、それでも稲姫は微塵も揺るぎません。
策が通じなかった昌幸は「やれやれ、さすがは本多忠勝の娘じゃわい。武士の妻はこうでなくちゃならん(あれを見候へ。日本一の本多忠勝の女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ)」と誉めたんだかぼやいたそうです。
劇中では孫たちの顔を見せてあげていた分、温情だったのかも知れませんね。
山内一豊のセリフについて山内一豊(画像:Wikipedia)ワイルドな山内一豊の登場に、全筆者が一瞬歓喜した(イメージ)
「うぬ!」
小山評定の最中、奮然と立ち上がったのが山内一豊(山丸親也)。お、アレが出るか?……と思ったら。
「内府殿と共にィ、この山内一豊(やぁのぅちかずとょぉ)、戦いまする!」
あれ。それだけ?誰でも言えそうな汎用性の高いセリフ。あぁ、アレはないのですね。
というのも、この山内一豊は小山評定の場において「徳川殿のために、自分の居城(掛川城)を提供する」旨を家康に提言。これにより、どちらにつくか迷っていた諸将の覚悟が決まったのでした。
……かくて徳川殿の御陣に、小山宇津宮に有合ふ大小名召して。人々の心の程を尋ね給ひしに、福嶋左衛門大夫正則、最初に組みす、対馬守一豊続て進み出で、一豊が領せし城、海道にあり、速に御勢を以て守らせらるべし……
※『藩翰譜』山内 後賜松平
【意訳】小山評定において、家康が諸大名の心を尋ねると、福島正則(深水元基)がまず味方すると名乗りを上げました。続いて山内一豊が名乗り出て、東海道にある居城を提供する旨を申し出ます。
かくして家康の勝利に貢献した一豊は、後に土佐一国を与えられるのでした。この小山評定が「一言で一国を手に入れる」一世一代の見せ場だったのです。それが没個性的なセリフに落ち着いてしまい、ちょっと残念でした。
何か見るからに武闘派で、今後の暴れぶりに期待したいのですが……その内モブキャラ化していくのでしょうね。
ちなみにこの居城を提供するというアイディアは、事前に同僚の堀尾忠氏と考えていたと言います。
何だ、他人の受け売りか……と思われるかも知れませんが、いざその場になって実行できるかできないかは大きな差だと思います。
鳥居元忠の最期について敵の軍勢に包囲され、側室の望月千代(古川琴音)とイチャイチャしながら最期を遂げた鳥居元忠。
果たして実際のところはどうだったのでしょうか。長いエピソードなので、最後の最期だけピックアップしましょう。
……はじめよりこれまで討て出で戦ふ事凡五度、敵を斬事其数をしらず。爰にをいて元忠城中に入りしとき其従兵わづかに十騎斗、四方に火かゝり城中に大軍みだれあひて、打残されし輩なを敵と戦ふ。……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
【意訳】伏見城から撃って出ることおよそ五度。縦横無尽に斬り回り、討ち取った敵は数え切れぬほどだった。
しかし生き残った者はわずか10名ばかり。四方から火の手が上がり、城内には敵の大軍が乱入。
残された者たちは、なお死力を尽くして戦い続けた。
……元忠長刀を杖とし石壇に腰うちかけて、しばらく息をやすめ居る處に、鈴木孫三郎某が組の士雑賀孫一重次と名のり、鎗を取て突かゝりしかば、城の大将鳥居彦右衛門元忠こゝにあり、首とりて名誉にせよと、長刀を取直して組むかふ。重次たちまち鎗をふせ大将の身として匹夫と斬死せられむは遺恨なり。今はこれまでなり、すみやかに生害あられよ、其しるしを申うけ、後代の誉とせむと申ければ、元忠しかりとし、汝に首を得さすべきなりとて、広縁に上りて腹かき切て死す。年六十二……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
【意訳】くたびれ切った元忠が、石壇に腰かけて休んでいると、一人の敵が現れた。彼は鈴木孫三郎の配下・雑賀孫一重次。元忠に一騎討ちを挑みかかる。
「我こそは伏見城代・鳥居彦右衛門。この首とって誉れと致せ!」
長刀をもって挑みかかるも疲労困憊、たちまち重次に突き伏せられてしまう。
「鳥居殿ほどの方が、それがし如き匹夫に首をとられては気の毒でならない。今はこれまで、速やかにご自害召されよ」
「相分かった。この首級をくれてやろう」
かくして元忠は腹を掻き切って息絶えた。享年62歳。
……とのこと。今回は最期だけピックアップしましたが、三成の大軍に怯まぬ様子や、息子たちに語り継いだ忠義の精神などを描いて欲しかったですね。
※鳥居元忠の遺言:
【関ヶ原の合戦】死を覚悟した鳥居元忠(音尾琢真)が息子たちに送った遺言がコチラ【どうする家康】……この日元忠にしたがひて戦死する宗徒の郎等五十七人、其餘兵七百餘人、歩卒数百人に及べり。こゝにをいて孫市重次、元忠が首を得て実検に備ふ。三成これを公卿臺にすへて、大坂京橋口に梟首す……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
【意訳】元忠と共に討死した者は一族57名、その他兵が700余り、雑兵が数百人に及んだ。
雑賀重次は元忠の首級を首実検に備え、三成はそれを梟首(きょうしゅ。さらし首)とした。
……かくして伏見城は陥落。決戦の火蓋が切って落とされたのでした。
コラっ、正信&康政!第二次上田合戦についてこれまた有名なエピソードですね。
「真田の狙いは、我らをここに引き止めておくことですからな」
……え?最初から分かっていたならさっさとそう言えばいいのに、本多正信(松山ケンイチ)も榊原康政(杉野遥亮)も人が悪いですね。
真面目にやってるんですか?特に正信は他人事っぽく言っていましたが、何のために家康は「知恵者」二人を秀忠につけたと思っているのでしょうか。
こういうのを「火事場跡の賢者顔」というのです。後からあーだこーだ評論するなら誰でも出来ます。
何だか秀忠だけがその時代を生きていて、二人は未来を知っているかのようでしたね。
もし劇中で正信らが先を急がせ、秀忠が真田にこだわって上田城を攻め続けるといった場面があればともかく、そういう描写もありません。
(そのくらい想像で補え、という意見もあるようですが、その背景描写も含めてのドラマです)
視聴者にしてみれば「秀忠だけ将器がないと言わんばかりの口を利いてるんじゃないよ。正信も康政も同罪かそれ以上だよ」とツッコミを入れたくなってしまいますね。
かくして、二度にわたり真田昌幸の術中にはまってしまった徳川勢。
いわゆる第二次上田合戦について、かつては「徳川秀忠の暗愚により、足止めばかりか大損害をこうむった」とされて来ました。
しかしそれを裏づける史料が決定打に欠けるようで、近年の研究では小競り合いに過ぎなかった可能性も考えられているようです。
ちなみに、意気揚々と上田城内へ引き揚げてきた真田信繁に対して、昌幸は天井から垂れ下がっている布切れを寄越しました。
どうやら包帯代わりのようで、特にタネも仕掛けもないものと思われます。
時代風俗的にこんな汚らしいことは実際しなかろうな、だから何か意味があるのかと思ったら、別にそうでもありませんでした。
以前のキャンドルテーブルもそうですが、物語上の意味がない奇抜なインテリアは、気が散ってしまうため控えて欲しく思います。
真田昌幸は関ヶ原の戦後、流罪に処されてそのまま亡くなるため、出番はこれで実質終了でしょう(最期のシーンくらいは出るかも)。お疲れ様でした。
かくして真田信幸(吉村界人)と真田信繁の兄弟は袂を分かち、別々の末路をたどることになります。
本当はカッコよかった大久保忠益劇中では利根川の氾濫で足止めを食らい、秀忠に書状を届けるのが遅れてしまった大久保忠益(吉家章人)。
真田の忍び扮する水夫らに襲われて書状を奪われ、取り返すのに手こずったとか。
私が真田方なら、とりあえず敵である大久保忠益を殺しておきますが、彼らは優しいんですね。
また書状もわざわざ取っておくでしょうか。裁判の証拠にする訳でもなし、奪って中身を確認したら、そんなもん火中にポイ一択と思われます。
さて、そんな大久保忠益は亡き大久保忠世らの従兄弟に当たる人物。果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。
●忠益
初忠利 與一郎 助左衛門 大久保五郎右衛門忠俊が五男、母は某氏。東照宮につかへたてまつり、永禄六年本願寺の門徒一揆のとき父兄親族等とともに上和田の砦にありて賊徒をふせぎ、軍忠を励し創をかうぶる。この役に朋友某忠益が鎗を借て敵を突てその鎗を捨、敵これをとる。忠益敵陣に馳いり、かの鎗を奪ひ、その敵を突首級を得たり。元亀元年姉川の役に、御旗本にありて敵兵をうちとり、三年三方原の戦にもしたがひたてまつり、天正三年長篠の合戦には柵際にをいて首級を得たり。八年遠江国色尾の御退口にしたがひたてまつり、九年高天神の城攻にも供奉し、戦を交へ創をかうぶるといへども、首級の功あり。十二年長久手合戦のときは、水野太郎作正重、小林又六某、青山善左衛門正長、安藤五左衛門重信等とともに柵際にいたりて敵を討とる。慶長五年関原御陣のときは、御使番に列してしたがひたてまつり、後御徒頭をつとむ。元和三年十月九日死す。年七十一。法名日浄。
※『寛政重脩諸家譜』巻七百四 藤原氏 道兼流 宇津宮支流 大久保
……三河一向一揆・姉川合戦・三方ヶ原合戦・長篠合戦・高天神城攻め・小牧長久手合戦をくぐり抜けた歴戦の勇士です。
関ヶ原でも使番として家康に供奉しており、のちに御徒頭(おかちがしら。歩兵隊長)にまで出世しました。
何だか泣きわめいて腹を切る切らない印象しか残ってないかも知れませんが、実は凄い人物だったんだと知って貰えたら嬉しいです。
みんなで仲良く、お手紙書き書き大作戦!伏見落城の悲報を前に、神の君は持っていた筆をポロンチョ、コロリ。
(できれば筆は鉛筆のように握るより、立てて使われた方が美し……いや、戦国時代は書法が確立してなかったのかも?)
明らかに見捨てたのに、わざとらしくショックを受けたような描写は、これは狸ぶりを表現したのでしょうか。そういうのを身内だけの場所でやっても……。
それはそうと。みんな揃ってお習字?していたので一体何事かと思ったら、諸大名を調略する書状をしたためていらしたんですって。
「腕が折れるまで書く(キリッ)」
素敵カッコよく決意を述べられるイケメン神の君ですが、あの殿、畏れながら……。
一、戦国時代には右筆(ゆうひつ)という素晴らしい代筆サービスがございます。
一、いざ決戦まで一ヶ月に迫った段階で書状を出すのは遅すぎではないでしょうか。
……右筆は祐筆(筆をもって主君をたすける意)とも書くとおり、主君の代わりに書状をしたため、主君は花押(かおう。サイン)を書くだけ。便利ですね!
家康ほどの人物が右筆もおかず、すべての書状を御自ら書かれるのは無理があるでしょう。
家臣たちもお手紙書き書き大作戦に加わるより、決戦に備えてすべきことがあるんじゃないでしょうか。
そんなんじゃ、今年の関ヶ原は三成に負けてしまいますぞ……と思ったら、石田陣営も似たような感じでした。じゃあ大丈夫ですね。
いざ当日、腱鞘炎で采配が振るえないなんて事のないよう、ご自愛ください。
第43回放送「関ヶ原の戦い」「三成を倒し、我らが天下を獲る!」
えぇっ、家康さんあなたそれを言ってしまうんですか?
そこは狸ぶりを発揮して、あくまでも「豊臣家のために」三成を討つ芝居をしなくちゃ台無しです。
前から薄々気になっていたのですが、豊臣恩顧の加藤清正や福島正則・黒田長政らが徳川に味方するのは、ただ三成憎しだけではありません。
「すべては豊臣家の天下を守るために」
まぁもちろん、中には「勝ち馬に乗れりゃいいのさ」と思っていた者もいるでしょう。
しかし清正や正則は、子供の頃から秀吉に可愛がられ、遺児・秀頼に対しても不動の忠誠を持っていたはずです。
小山評定の場であんなことを言い放ったら、文字通り謀叛人。三成を討つ大義名分を喪うどころか、その場で殺されかねません。
確かに、来週末の関ヶ原では家康が勝つでしょう。そして豊臣も滅ぼして天下を獲るでしょう。
でも、それを前提にした発言はいただけません。
(そもそも三成を倒しただけで天下は獲れませんし……)
ともあれ来週は本作一番?の見せ場が予想されます。心して見届けたいですね!
※参考文献:
黒田基樹『「豊臣大名」真田一族 真説 関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年3月 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館、1996年7月 新井白石ほか『藩翰譜 第7上ー第8上』国立国会図書館デジタルコレクション 『寛政重脩諸家譜 第4輯』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan