「どうする家康」関ヶ原は、まだ終わっておらぬ…第44回放送「徳川幕府誕生」振り返り

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「どうする家康」関ヶ原は、まだ終わっておらぬ…第44回放送「徳川幕府誕生」振り返り

「関ヶ原は、まだ終わっておらぬ」

意味深につぶやく我らが神の君・徳川家康(松本潤)は、豊臣家から天下を完全に奪う布石として征夷大将軍に就任。ここに江戸幕府が誕生しました。

(※幕府という呼称は武家政権に対する便宜的な呼称であり、当時の人々がそのように呼んではいなかったはずとか、そういう野暮なツッコミはなしにしましょう)

早送りで時が流れ、天下草創の功臣らが次々と世を去っていきます。そんな中、たくましく成長していく豊臣秀頼(作間龍斗)の存在を脅威と感じたのでしょうか。

「時は満ちた」

いよいよ最終版(大坂の陣)へと向かっていく「どうする家康」。第44回放送「徳川幕府誕生」今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!

目次

将軍となって幕府を開く? 本多忠勝・榊原康政の最期 本多正純と朱子学について 偉大なる凡庸?徳川秀忠が第二代将軍に その他、今回すでに亡くなっている人々 第45回放送「二人のプリンス」

将軍となって幕府を開く?

『吾妻鏡』を愛読していた家康。ずっと憧れで尊敬していた源頼朝公と同じ征夷大将軍になれた喜びを、もっと描写して欲しかった(イメージ)

「征夷大将軍となって幕府を開くというのはいかがか」

そんな本多正信(松山ケンイチ)の進言により、慶長8年(1603年)に征夷大将軍となった家康。

武家の棟梁となったことで、公家の頂点である豊臣家と住み分けができる。劇中そんな事が語られていました。

なろうとして簡単になれるものなのか……そんな実務的な疑問もさることながら、家康はじめ当時の人々に、幕府を開くという概念はあったのでしょうか。

幕府という言葉は「全国の武士たちに支配権を及ぼした武家政権」に対する、歴史学の便宜的な呼称です(諸説あり)。

鎌倉幕府・室町幕府そして江戸幕府に共通する要素として征夷大将軍の官職が挙げられるものの、征夷大将軍になったから自動的に幕府が開けるというものではありません。

征夷大将軍という名と、全国的な支配権という実を兼ね備えた武家政権を後世の人々が幕府と呼んだのであり、その辺りについてはもう少し掘り下げて欲しかったと思います。

【検証】やっぱりいい国(1192年)鎌倉幕府…その成立年に関する諸説を検証してみた

また『吾妻鏡』の愛読者であった家康は、尊敬する源頼朝公と同じ征夷大将軍にこだわっていました。

長年の願いであった武家の棟梁として頂点に上り詰めた喜びも、視聴者と共に味わえる描写が欲しかったですね。

本多忠勝・榊原康政の最期

鬼神のごとき本多忠勝。実際は、どんな顔をしていたのだろう(画像:Wikipedia)

「老いなど認めぬ!」

西国へ睨みを利かせるべく、鬼神のごとき肖像画を描かせる本多忠勝(山田裕貴)。自慢の名槍・蜻蛉切で指を切ってしまったことで、生涯無傷の伝説が破られてしまいました。

一方、そんな忠勝をたしなめる榊原康政(杉野遥亮)。彼もまた病魔に蝕まれ、別れの挨拶回りに忙しそうです。

「もう、見えておらんのであろう」

忠勝は慶長12年(1607年)ごろに眼病を患い、慶長14年(1609年)には隠居。家督を嫡男の本多忠政に譲りました。そして慶長15年(1610年)10月18日、63歳で世を去ります。

この時、本多家重臣の梶勝忠と中根忠実が後を追って殉死。平生よほど慕われていたのでしょう。

『名将言行録』では大谷三平とその家僕が殉死しており、遺した辞世が伝わっています。

死にともな、あゝ死にともな、去りとては、君の情の、今は恨めし。

【意訳】死にたくない。あぁ死にたくない。しかし主君(忠勝)から受けた恩義を思えば、後を追わずにいられない。それが今となっては、とても恨めしくてならない。

実に複雑な感情が詠まれていますが、これは本多忠勝自身の辞世としても伝わりました。

死にともな  嗚呼死にともな  死にともな深き御恩の  君を思えば

【意訳】死にたくない。あぁ、死にたくない、嫌だ、死にたくない!我が君(家康)から受けた深い御恩に、まだまだ報いねばならんのに!

……鬼神のごとき忠勝からは想像もつかない家康への忠義は、愛情にも近いものでした。

なお、榊原康政は忠勝よりも早く慶長11年(1606年)5月14日、59歳で病死しています。

秀忠はその死を深く悼み、関ヶ原の遅参をかばってくれた恩義を忘れることなく墓参したのでした。

本多正純と朱子学について

林羅山。劇中で朱子学の精神にふれる機会などはあるのだろうか(画像:Wikipedia)

さて、老将たちが世を去っていく中、新たな世を切り開く優秀な人材が続々と集まってきました。

そんな一人が本多正純(井上祐貴)。かのイカサマ師?本多正信の嫡男です。

「あのイカサマ師の子とは思えぬほど真面目な……」

家康からそう評されますが、正信のイカサマ師設定は、生涯有効なんでしょうか。

確かに過去色々あったとは言え、もう何年前のことですか?半世紀近くも昔のことをいつまでもネチネチと……。

話を戻して、この本多正純は永禄8年(1565年)生まれ。第44回放送終了の慶長16年(1611年)時点で、すでに47歳。そんなに若くもないどころか既に初老ですが、まぁおいときましょう。

『名将言行録』から、その生涯をざっくり抜き出すとこんな感じです。

佐渡守正信の子、弥八郎と称す、後上野介に任じ、宇都宮十八萬石に増封せらる。後罪を得て由利に謫せらる。寛永十四年三月十日卒、年七十三。……

※『名将言行録』巻之五十六 ○本多正純

家康のブレーンとして篤い信頼を得て、父と共に活躍しますが、家康の死後に失脚。出羽国へ流罪とされ、現地で寂しく世を去ったのでした。享年73歳。

ちなみにこの正純、関ヶ原における秀忠の遅参を父・正信の責任とし、切腹させるよう家康に進言したとか。

それを知って、老臣の一人である安藤直次は「父親に腹を切らせようとした報いを、必ず受けるであろう」と予言。非業の末路は、天罰だったのかも知れませんね。

ちなみに江戸時代の朱子学は、藤原惺窩(ふじわらの せいか)が嚆矢(こうし。パイオニア)となって普及させました。

林羅山(笑い飯・哲夫)はじめ、多くの者たちが弟子となっており、泰平の世を維持する上で重要な教えとして広まります。

偉大なる凡庸?徳川秀忠が第二代将軍に 徳川家康の跡継ぎは次男?三男?それとも四男?戦なき世に相応しい後継者の資質【どうする家康】

偉大なる凡庸であるがゆえに、二代目将軍に指名された徳川秀忠(森崎ウィン)……そんなんでいいんですか?いいんですよね。承知しました。

確かに、愚鈍でも暴君でも治まるような体制というのは政権における円熟であり理想とも言えます。

しかしこの時期、豊臣政権はいまだ健在。石見・生野銀山をおさえて(徳川の直轄領にして)軍資金を確保したり、堺奉行や長崎奉行に譜代の家臣を配置したりなど、対豊臣政権において油断のならない時期でした。

全体的に戦国時代らしい緊張感が欠けているように思えてなりません。まるで「もう徳川が豊臣を滅ぼす結果(歴史)を知っているから、登場人物の行動や動機は後付けで構わない」とでも言いたいようです。

また、いつまでもネチネチと秀忠をいびり続ける家康の動機が「叱ってくれる者が周りにいないから」というのも、いささか腑に落ちません。

さっきの本多正純もそうですが、次の世代がもう中年どころか初老に差しかかっているくらいに年月が経っているのです。

演者を確保する都合もあるのでしょうが、主要メンバーの嫡男くらいは用意しておいた方が、乗り越えてきた歳月の長さを感じられたのではないでしょうか。

あと、征夷大将軍を秀忠が受け継いだことで茶々(北川景子)がお怒りのようです。あれ、公家と武家の住み分けとか言っていたのはダメだったのでしょうか。

そういう設定なら設定で、ちゃんと根回しを(少なくともその努力を)している描写がないと、単なる思いつきに見えてしまいます(言うまでもなく、豊臣家は自分たちこそが武家の頂点と思っていたはずです)。

その他、今回すでに亡くなっている人々

家康の人質時代から、ずっと忠義を尽くしてきた平岩七之助(親吉)。月岡芳年「尾州大高兵糧入図」より

ちなみに今回、1話で10年以上の歳月が流れているため、この期間に多くの人が亡くなっています。主要人物だけ、ピックアップしておきましょう。

井伊直政(板垣李光人)……慶長7年(1602年)2月1日没。42歳 徳善院玄以(村杉蝉之介)……慶長7年(1602年)5月20日没。64歳 小早川秀秋(嘉島陸)……慶長7年(1602年)10月18日没。21歳 二代目茶屋四郎次郎(中村勘九郎)……慶長8年(1603年)4月1日没。享年不詳 西郡局(お葉。北香那)……慶長11年(1606年)5月14日没。享年不詳 松平忠吉(福松として出ているから一応)……慶長12年(1607年)3月5日没。28歳 結城秀康(岐洲匠)……慶長12年(1607年)閏4月8日没。34歳 西笑承兌(でんでん)……慶長12年(1607年) 伊奈忠次(なだぎ武)……慶長15年(1610年)6月13日没。61歳

【もうすぐ亡くなる】

平岩親吉(岡部大)……慶長16年(1612年)12月30日没。71歳

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より。

「あぁ、いつの間にか亡くなってたんだね」

うっかりすると見落としてしまうので、贔屓の武将がいる方は、見逃さないよう注目していきましょう。

第45回放送「二人のプリンス」

豊臣秀頼(画像:Wikipedia)

関ヶ原の合戦が終わったと思ったら、1話で一気に10年の歳月をすっ飛ばすとは、なかなかの荒業ですね。何だか歴史教科書の年表をたどるような速さでした。

さて、次週の第45回放送は「二人のプリンス」。これは恐らく豊臣秀頼と徳川秀忠を指しているのでしょう。

プリンス(Prince)とは王子・皇子のこと。日本史の感覚で言えば皇族を指すのが相応しく思いますが、本作では「ちょっといいとこのおぼっちゃん」くらいの感覚で使っているようです。

たくましく成長していく秀頼に対して、物足りない秀忠……というちょっと劣勢感を演出する展開が予想されます。

秀忠に限りませんが、どうして二代目ってパッとしない印象を与えられてしまうんでしょうね。早く立派になって、父親を越えて欲しいものです。

NHK大河ドラマ「どうする家康」もラスト4回(全48回予定)。最後まで、眼が離せませんね!

※参考文献:

『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 完結編』NHK出版、2023年10月

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