「にほん」か「にっぽん」か――⁉国名「日本」誕生するまでの舞台裏 (2/3ページ)
また、「扶桑」というのは、中国から見た東海の中にある神木のこと。
それではいつ、「大和」や「扶桑」の国名を「日本」へ改めたのだろうか。これには諸説あり、主なものをまとめるとこうなる。
●百済の国名が「日本」だったのか
(1)厩戸皇子(聖徳太子)が隋(当時の中国)の皇帝に送った国書に「日出処(ひいづるところ)」と記載した推古天皇の時代(593~628年)
(2)大化の改新のクーデター(コラム参照)を実行し、朝廷の制度が整いだした孝徳天皇の時代(645~654年)
(3)飛鳥(奈良県)から大津(滋賀県)へ遷都した天智天皇の時代(661~671年)
(4)壬申の乱(コラム参照)で天皇の天皇の時代(672~697年)より前に「日本」という国名が使われていたことになる。
しかし、その墓誌の銘文にある「日本」という意味が本当に国名を指しているのかという問題がある。墓誌には〈日本餘噍、據扶桑〉とあり、「日本の残党が扶桑に逃れてそこに拠った」という意味になる。
しかし、日本と扶桑ともに国名だとすると意味が通じなくなる。その一方で、百済を日本だとすると、「百済の残党が扶桑(日本)に逃れてそこに拠った」となって意味が通じる。
それでは、もともと百済の国名が「日本」だったのだろうか。
それもまた誤りで、ここでいう日本は「ひのもと」、すなわち太陽が昇る地域である東方全域を指す言葉だと理解され、中国の東方に位置する百済の残党が当時、扶桑と称していた日本へ逃れてきたという意味となる。
当時の我が国の国名は「扶桑」であって、日本は中国から見た東方を指す言葉に過ぎず、まだ「日本」という国名は中国や朝鮮で認識されていなかったことになる。
事実、唐が「日本」という国名を認めるのは、大宝令で国名を正式に定めた以降のことで、そのことは、遣唐使の報告によって明らかになっている。