安藤広重は「実際は旅をしていない!?」浮世絵「東海道五三次」誕生の真相 (2/3ページ)

日刊大衆

 その後、彼は「一幽斎」「一立斎」と号を改め、三五歳で風景画家のスタートといえる『東都名所』を描くに至るが、その間、定火消同心の職は親戚に譲って隠居。浮世絵で生計を立てるまでになっていた。

 そうして彼が風景画家として名が売れ始めた頃、東海道を旅して例の五三図の浮世絵(実際には起点の日本橋と終点の三条大橋を含むので計五五図)を描いたというのが通説だ。

 明治の浮世絵研究家である飯島虚心が記した歌川一門の伝記の「歌川広重」の項に

「天保の初年、広重(が)幕府の内命を奉じ京師に至り、八朔御馬献上の式を拝観し、細かにその図を描きて上る」とあるからだ。

 彼が幕府の命で朝廷に御馬を献上する一行に加わって上洛し、その際、東海道中をつぶさに観察して描いたというわけだ。

 御馬献上の儀式は毎年八朔の日(八月一日)に朝廷で行われる行事のために将軍家が関東一円から駿馬を選んで献上するもので、重要な行事である。

 また、『東海道五三次』のうち、「藤川宿」(愛知県岡崎市)では、馬と付き添いの武士らの一行に対し、町人らが下座するシーンが描かれ、これが御馬献上の一行を描いたものだとされる。

 つまり、広重自ら、その一員である御馬献上の一行が宿場を通る際の情景を描いたことになる。

 ところで、歌川広重伝で虚心はこの上洛を天保初年だとしているが、今ではより正確に、天保三年(1832)、広重が三六歳のときのことだとされている。

 というのも、空前の大ヒットとなる『東海道五三次』の序文に天保五年という出版年が記されており、「御油宿」(愛知県豊川市)の絵の中に「一立斎」の文字があって、天保三年に彼が画号をそう改めているからだ。

 つまり、その年に彼が上洛し、翌天保四年の一年かけて全五五図を完成させて天保五年に出版――そう考えるのが無難だからだ。

 問題は虚心が記した通り、本当に広重は天保三年の御馬献上のための一行に加わって上洛したかどうかだ。

 これは、三代目歌川広重が語った話がベースになっているが、三代目は明治に活躍した浮世絵師(1842~1894年)。

「安藤広重は「実際は旅をしていない!?」浮世絵「東海道五三次」誕生の真相」のページです。デイリーニュースオンラインは、跡部蛮幕末歴史カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る