安藤広重は「実際は旅をしていない!?」浮世絵「東海道五三次」誕生の真相 (3/3ページ)

日刊大衆

広重研究の基本本史料といえる『安藤家由緒書』に上洛の記載がなく、まずそこが疑いを生じさせた。

■広重は御馬献上一行に加わっていなかった!?

 次に朝廷への御馬献上という重要な行事の一行に、定火消同心という下級役人が加わることができたのかという問題もある。

 しかも、広重が役人を退いたあとのこと。同行絵師という身分で参加したとも考えられるが、広重が風景画家として有名になるのは『東海道五三次』が大ヒットしたあとの話だ。

 さらに「藤川宿」が御馬献上の道中の一シーンを描いたものという説も、その一行が持つ鋏箱の紋所が徳川家の「葵」紋ではなく、「笹竜」であるのも不自然だ。

 そもそも広重が『東海道五三次』を描く前にも『東海道名所図会』などが出版され、実際に旅した人の話やスケッチ、それに少しばかりの創造力があれば、五五図を描けないことはないという理由で、最近では彼が御馬献上の一行に加わっていなかったとする説が有力だ。

 しかも、五五図の中には実際に風景にはない山があったり(「池鯉鮒宿」)と、実際に旅してスケッチした内容に忠実なら、犯すはずのないミスが散見されるのだ。

 もちろんそれは、作者の制作意図に合わせて実景を誇張したり(「箱根宿」)、あるいは、三島大社の鳥居と老杉の位置を動かして改変したり(「三島宿」)と、あくまで作図上の問題であり、彼が実際に旅していなかったことの証明にならないという指摘もある。

 しかし、広重が富士山を描いた画集の序文で書いた「まのあたりに眺望したものをそのまま写し取った」というのは『東海道五三次』に限っていえば、当たらないことになる。

 ただし、もし彼が東海道を歩かずに筆を取り、その風景が実景を弄ったものだとしても、『東海道五三次』の芸術性の高さは決して失われることはない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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