遊女を呼んではどんちゃん騒ぎ…賄賂で身を滅ぼした江戸時代の役人・上羽与平次の末路

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遊女を呼んではどんちゃん騒ぎ…賄賂で身を滅ぼした江戸時代の役人・上羽与平次の末路

目先の欲に目が眩み、公益を損ねる賄賂はいつの時代も良からぬもの。しかしそれでも賄賂を出す者、もらう者、欲に目が眩む者は後を絶ちませんでした。

今回は江戸時代、賄賂が元で身を滅ぼしてしまった上羽与平次のエピソードを紹介。

皆さんには無縁でしょうが、まぁ昔にそんな人もいたんだな、と薬にしていただけたら幸いです。

ずっと真面目にやってきたのに……出張先で羽目を外した結果

上羽与平次は生年不詳、元は某家の子として誕生しました。

当初は真面目に務めていた(であろう)与平次(イメージ)

それが上羽新五郎の元へ養子に出され、寛延元年(1748年)7月5日に家督を継ぎます。

当初は真面目に仕事をしていたようで、やがて江戸城の御天守番に抜擢されました。

その仕事ぶりが評価されたのか、明和6年(1769年)5月26日 、与平次は御勘定に栄転します。

御勘定とは勘定奉行の配下で、勘定奉行>勘定組頭>御勘定>勘定支配という序列でした。

どうやら算術ができるだけでなく、お金を任せられるほどの信頼を築いていたようですね。

俸給は廩米(蔵米。所領ではなく米の現物支給)150俵。所領なら約60石(1石≒2.5俵)に当たります。

さて、そんな与平次は翌明和7年(1770年)12月6日。関東および奥州の川普請(河川の改修工事)を巡見(視察)するため、江戸を出発したのでした。

ここでどうした訳かタガの外れてしまった与平次。道中の宿ではたびたび遊女を呼んではどんちゃん騒ぎ、その費用は代官所を通じて村の者たちに出させたそうです。

巡見の道中、遊び惚ける与平次ら(イメージ)

村の人たちも、何でそんなの出しちゃうの?と思いますが、それで普請の巡見に手心を加えてもらうなど、便宜を図ってもらう魂胆があったのでしょう。賄賂を求める方は元より、出す方も大概です。

まったくロクでもありゃしない……というわけで、お上の威光を振りかざし、公務をないがしろにした不届き者。果たして与平次は捕らえられ、遠流に処されてしまったのでした。

その後、与平次がどうなったのか、消息を絶ってしまったようです。

終わりに

上羽
某 与平次 実は某氏の男、新五郎某が養子となる。

寛延元年七月五日遺跡を継、後御天守番となり、そののち支配勘定に転じ、明和六年五月二十六日班をすゝめられて御勘定となる。 廩米百五十俵 七年十二月六日先に関東をよび北国の川々普請の事をうけたまはり、彼地におもむく。中途にしてしばしば売女をよびよせ、代官所の手代をよび村役のものを集め、遊興にふけり、その費用は普請所の村々より出さしめし事賄賂をうくるにあたれり。しかのみならず村役のものどもとしめしあはせ、巡見の郷里を省きし等のこと、すべておほやけをおそれずうしろぐらき行為なりとて遠流に処せらる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百二十 未勘 菰田 上羽

【上羽家略系図】

……上羽与兵衛-上羽与左衛門-上羽新五郎=上羽与平次-上羽与十郎・上羽孫次郎……

以上、賄賂が元で身を滅ぼしてしまった上羽与平次のエピソードを紹介しました。

「お役人さま、これでよしなに……」便宜を図ってもらうよう求める村人たち(イメージ)

十数年にわたって真面目に勤めてきたのに、江戸を離れた解放感と大きな権限を与えられたことで舞い上がり、魔が差してしまったのでしょうか。

コツコツ地道に積み上げてきた信頼を、壊すのは一瞬。是非とも反面教師にしたいところです。

ちなみに与平次には上羽与十郎と上羽孫次郎という息子がおり、兄の与十郎は追放、弟の孫次郎は親戚に預けられました。

その後、彼らがどうなったのか。新たに史料や文献が見つかったら、また紹介したいと思います。

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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