銘酒「北の勝」酒蔵の創業者!日本で初めてカニ缶の製造に成功した男・碓氷勝三郎の生涯【その2】

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銘酒「北の勝」酒蔵の創業者!日本で初めてカニ缶の製造に成功した男・碓氷勝三郎の生涯【その2】

さて前回は、日本で最初に蟹缶詰に成功した碓氷勝三郎が、新潟県与板町から、北海道へと移住し、少しずつ財を蓄え、商売を成功させていったところまでお話しました。

銘酒「北の勝」酒蔵の創業者!日本で初めてカニ缶の製造に成功した男・碓氷勝三郎の生涯【その1】

無事に酒造業まで開業できた勝三郎でしたが、勝三郎は、根室の産業のトップが、漁場である以上、この方面に進出して新しい関連事業を起こすことがベストだと考えました。

そこで、味の良い鮭・樽が塩蔵品として低価であり、缶詰としたなら需要も多く、価値も高くなるだろうと思い、缶詰に目をつけました。

1894(明治27)年5月、勝三郎は野付郡別海村(根室支町別海町)西別に鮭・鱒の缶詰工場を建設し、缶詰事業を始めました。この年は、日清戦争の影響で、缶詰の値段は上昇し、販売も急激に拡大しました。

その後、勝三郎は各地に工場を建て、その中でも国後島に重点を置きました。取り扱う製品も、鮭・鱒に限らず、北寄(ほっき)・海扇(ほたて)・浅蜊(あさり)まで及びました。

また、1896(明治29)年、海老の缶詰の試作を始めました。ところが、当時の技術で海老を缶詰にするのは、困難を極めました。カニに含まれるチロシンというアミノ酸が、体内に持っている酸化酵素により酸化され、メラニンが生成されることによって表面が黒くなる「黒変問題」が発生したのです。

勝三郎は研究を繰り返し、創意工夫を重ね、1899(明治32)年、強度のアルカリ性の酸化により黒変し、腐敗することを知り、海老の肉を硫酸紙で包むことで問題を解決し、とうとう海老の缶詰が完成しました。

1900(明治33)年、フランスのパリの万国博覧会に海老・鮭・鱒の水煮缶詰と、大鮃デンブ缶詰を出品して銅賞を受け、好評を博しました。

そしてこの経験が、蟹缶詰の成功に繋がっていくのです。

当時、古釜布(ふるかまっぷ)は、蟹の収穫は多かったものの、その加工を行うものはなく、仮に加工できたとしても、干した形で出荷されていたため、味が落ち、購入する人が少ない状態でした。

ところが、勝三郎は、蟹の肉質の風味が良いことから、これを食用として売れることを確信し、硫酸紙を用い、海老缶詰の製法を応用する形で、蟹の缶詰の製品化に成功しました。しかも、蟹缶詰は、欧米人の好みにも合って、海外にも輸出され、特にアメリカへの輸出の主要品となりました。

1910(明治43)年、アラスカの太平洋博覧会では大賞を受け、勝三郎は事業の拡大を行いました。

次回【その3】に続きます

参考

『与板町史』通史編 下巻(1999 与板町) 『与板町史』資料編 下巻(1993 与板町) 橘文七 編『北海道史人名辞典』(1957 北海道文化資料保存協会.) 北海道総務部行政資料室編『開拓の群像』下(1969) 寺島柾史『根室郷土史』岩崎書店 (1951 岩崎書店)

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