秀吉の朝鮮出兵で李氏朝鮮から強制連行され、千姫に仕えた武士・染木正信【どうする家康 外伝】
天下を一統したならば、唐天竺まで攻め入らん……という訳で、豊臣秀吉の飽くなき野望によって晩節を汚してしまった朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)。
古来戦場の習いとて、女子供も乱取り次第……と、少なからぬ人々が李氏朝鮮から連行されたそうです。
今回はそんな一人・染木正信と姉の染木早尾を紹介。果たして彼らは、どんな生涯をたどるのでしょうか。
姉と共に天樹院(千姫)の元で仕える染木
先祖は朝鮮の人にして、姓は李氏なり。正信本朝にいたり、天樹院様方につかへ、おほせによりて染木を称す。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
染木正信は生年不詳。元の姓は李、名前は不明です(以下、便宜上「染木正信」で統一)。
家族は名前の分からない姉(のち早尾)がいました。両親や他の兄弟姉妹についてはよく分かりません。
朝鮮出兵に際して片桐且元に姉とともに捕らわれ、日本へ連行されました。
且元が出陣したのは文禄の役(第一次朝鮮出兵。天正20・1592年~文禄2・1593年)のみ、且元の帰国が文禄2年(1593年)9~10月と言われるため、その頃日本へ渡ったのでしょう。
その後、千姫(天樹院。徳川家康の孫娘)が豊臣秀頼(秀吉の遺児)に嫁いで大坂へやって来た際、且元は姉弟を彼女の召使いとして献上しました。
時は慶長8年(1603年)、姉弟はそれぞれ唐人風の装いで引き出されたと言います。
このことから、正信はまだ元服しておらず、歳のころは10代前半(~15歳)と見ていいでしょう。
そこから逆算して、染木正信の生年は天正18年(1590年)ごろと考えられます。
「これからは姫様の御為、忠義を尽くして参りまする」
という訳で千姫に仕えた姉弟。この機会に元服し、染木正信(通称は八右衛門)と名乗ったのでした。
一方で、姉は染木早尾と名乗ります。染木という苗字にどんな由来があるのか、正信・早尾という名前についても気になるところです。
残念ながら、詳しいことはまだ分かっておらず、今後の解明がまたれます。
その後、染木姉弟は生涯にわたり千姫に仕え、正信は土圭の間(とけいのま。時計を置いて時報を担当)に勤めました。
染木正信の子孫たち●正信 八右衛門
豊臣太閤朝鮮を征伐するの時、片桐市正且元かの國にをいて姉弟二人の小兒をいけどり、日本にをくる。天樹院御方大坂に居たまふのとき、且元より二人を唐土の童子の風俗に粧ひ、臺にのせてまいらす。姉を早尾といふ。弟はすなはち正信なり。ともに身を終るまで天樹院御方につかへ、正信は土圭間の取次役を勤む。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
以上、朝鮮から連行されて千姫に仕えた染木正信のエピソードを紹介しました。
その後、嫡男の染木正美も千姫に仕えたそうです。
●正美(まさよし) 利右衛門
天樹院御方につかへ、のち御広敷の添番をつとむ。※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
この正美には子供がいなかったらしく、菊池家より養子をとりました。血統的には、ここで絶えることになります。
●昌常 左内 宇兵衛
實は菊池氏の男、正美が養子となる。
元禄三年十二月十一日遺跡を継、のち表火番御広敷添番等をつとむ。※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
その後も染木家は代を重ねながら、家名を後世へ受け継いでいくのでした。
終わりに【染木家略系図】
……李某―染木正信―染木正美(まさよし。利右衛門)=染木昌常(左内)=染木美啓(仁十郎)―染木正明(まさあきら)―染木佐太郎……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
また、染木の家紋は「丸に四石(よついし)」「鷹羽打違(たかばのぶっちがい)」と伝わっていますが、これらについてもその由来を知りたいですね。
染木正信の他にも、当時は外国出身の武士が多くいたので、彼らについても紹介したいと思います。
※参考文献:
『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan