腹を切り、頭を撃ち抜き…江戸城無血開城の裏側で日本最初のピストル自殺をした川路聖謨とは? (2/2ページ)

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川路聖謨 『幕末・明治・大正 回顧八十年史』東洋文化協會

川路はその後、幕府の要職を歴任しましたが、日米修好通商条約の調印の際、天皇の勅許を得ようと上洛。うまくいかなかったため、そのまま左遷されてしまいます。

この時期、ちょうど幕府内部は将軍の後継者問題が勃発。水戸の慶喜か、紀州の家茂のどちらを選ぶかが問題になっていました 1858(安政5)年4月、井伊直弼が大老に就任すると、14代将軍として家茂を就任させますが、その際に慶喜を推していた一橋派を一掃します。川路もその騒動の渦中にあり、1859(安政6)年に隠居・差控の処分を受けていました。

その後、桜田門外の変が起こると、1863(文久3)年5月に、外国奉行に起用されますが、同年10月には辞職してしまいます。翌年には、中風の発作により、左半身不随となってしまいました。

そして、1868(慶応4)年3月15日、江戸城の無血開城が決定したのを知り、薩長主導の新政府に反駁した川路は、自決の道をとることにしました。

その際、川路は、半身不随のため、刀だけでは切腹しきれないと思ったのか、腹を切った後に、ピストルで頭を撃ち抜いたと伝わります。そして、これが、日本初のピストル自殺として記録されています。

参考

川田貞夫『川路聖謨 人物叢書』(1997 吉川弘文館) 川路寛堂『川路聖謨之生涯』復刻版(2014 マツノ書店)1903 吉川弘文館 初出

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