大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】

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大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】

豊臣秀頼の重臣で、大坂の陣の中心人物である大野治長

母が淀君の乳母であり、淀君とは乳兄妹の関係だった治長には、大野治房(はるふさ)・大野治胤(はるたね)・大野治純(はるずみ)の3人の弟がいました。

治長含め四兄弟は、全員大坂の陣に関わりがありますが、治長に焦点が行きがちで他の3人の活躍はあまりご存じない方の方が多いのではないでしょうか。

そこで今回は、兄・治長の影に隠れてしまっている3人の弟の活躍をご紹介します。

大野治長(真ん中)/Wikipediaより

主戦派の筆頭で兄と対立した治房

豊臣秀頼/Wikipediaより

治長の長弟に当たる大野治房は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では船場方面の守備を任されていました。しかし、戦況の悪化により治長は船場を捨てるよう命じましたが、治房は拒否。

困った治長は治房を軍議と称して、呼び出した末に拘束し、船場の各砦に火をかけました。

この火によって守備兵たちは撤退すると踏んでいましたが、突然の火に混乱してしまい、挙げ句の果てに徳川軍に砦を占拠されてしまいました。

以後、治長との関係は決裂し、主戦派の筆頭として和睦派の治長と対立します。そして、和睦は成立すると、治房は刺客を用いて治長を襲撃する事態にまで発展しました。

翌年の大坂夏の陣では、2000人の兵を率いて筒井定慶が守る大和国郡山城を攻略(郡山城の戦い)。その後は、大和方面より攻めてくる浅野長晟に対して、紀伊での一揆を皮切りに戦いを仕掛けることを画策します。

塙団右衛門/Wikipediaより

しかし、和泉国樫井まで撤退した浅野軍と大野軍の塙団右衛門が戦いを始めてしまい、大野軍は壊滅状態となり大坂城へ撤退しました(樫井の戦い)。

撤退後は、天王寺・岡山の戦いに岡山口の大将として出陣。徳川秀忠の陣まで殺到し、秀忠軍を混乱に陥れる活躍を見せます。

しかし、立て直されてしまったことですぐさま大坂城へ撤退しました。そして、城内に火の手が上がると、玉造口から逃亡し、行方をくらませました。

その後の治房について、京都で捕縛された末に斬首された説や逃亡せず大坂城で焼死した説、秀頼の庶子・国松と共に逃亡したが、土民に殺害された説など諸説あります

堺を焼き討ちした橙武者・治胤

治胤と同じく橙武者の薄田兼相/Wikipediaより

治長の次弟に当たる大野治胤は、秀頼の小姓として若き頃より豊臣家に仕えていました。

しかし、慶長14年(1609)に起きた猪熊事件の首謀者・猪熊教利の逃亡を織田頼長と共に助けた罪で追放されてしまいます。

その後は道犬斎と名を変え潜伏し、大坂の陣開始を機に兄弟たちを頼って再び豊臣家に仕えました。

大坂冬の陣では3300人の兵を率いて野田・福島を守備していましたが、大雨の中での襲撃に撤退。その結果、徳川軍の野田・福島占拠と豊臣軍の水軍壊滅という大敗北を招きました(野田・福島の戦い)。

治胤はこの戦いを機に「橙武者(鏡餅の飾りで置かれることから、見せかけだけの武者の意味)」と嘲られました。

ちなみに、大坂冬の陣での博労淵の戦いで敗北した薄田兼相(すすきだ-かねすけ)も橙武者と呼ばれています。

南都を焼き討ちした平重衡/Wikipediaより

翌年の大坂夏の陣では徳川軍の兵站となっており、武器や弾薬を影響していた堺の焼き討ちを決行。そして、天王寺・岡山の戦い後に大坂城から脱出を図るも、徳川軍に京都で捕縛されました。

捕縛された治胤は京都所司代の板倉勝重が預かっていました。

しかし、堺衆が平安時代に南都を焼き討ちした平重衡(たいらの-しげひら)が南都衆に引き渡された例を挙げた上で訴えたことで、堺衆に引き渡されます

その後、6月27日に堺衆によって治胤は火あぶりの刑に処され、命を落としました

また、『葉隠れ』では火あぶりによって炭になった治胤が、徳川軍の武士に脇差で斬りかかった後に灰になったという摩訶不思議な話も残っています。

徳川方として和睦に尽力した治純

片桐且元/Wikipediaより

最後に紹介する末弟・大野治純は先に紹介した2人とは違い、徳川家康に仕えていました。主に使番として活躍し、片桐且元との連絡役を務めました。

その際、方広寺の大仏供養の書状を受け取り、それが方広寺鐘銘事件に発展すると、淀君が遣わした治純の母・大蔵卿局と家康が面会する際に仲介する役割を担います。

慶長19年(1614)9月に且元が大坂城退去となった際には、その経緯を聞く使者として大坂城に出向きますが、兄の治長に怪しまれしまい入城できませんでした。

治純は大坂冬の陣が開戦前から和睦を勧めており、開戦後も捕虜を治長に送り返した上で再度和睦を勧めていました

和睦後に治長が治房の刺客によって負傷すると、家康の許可をもらって見舞いに行くほど治長を気にかけていることがわかります。

そして、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、急病で亡くなったと言うように伝えて自害しました

最後に

関ヶ原の戦い後の豊臣家を支えた大野治長でしたが、弟たちはどこかしら別の目的があったように思えます。

治房は豊臣家のためというよりも戦いの場を求めていた節があり、治胤は兄たちが豊臣にいるから戦いに参加したように思えてしまいます。

唯一、治純のみが豊臣との和睦を望んでおり、そのために動きました。だからこそ、和睦派だった治長の身を案じていたのかもしれません。

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