「関東戦国時代」の引き金になった永享の乱「知られざる要因と行方」 (2/3ページ)

日刊大衆

 初代基氏から孫の満兼の時代までは大きな問題が生じなかったが、曾孫の足利持氏(四代鎌倉公方)の時代ともなると、鎌倉府誕生の意義よりも京の将軍家への対抗意識がまさる状況が生まれた。

 というのも鎌倉公方は配下の武士を守護に任じる権限を持っていたが、京の将軍家が「推挙」という形で、その人事に口出ししたからだ。

「将軍家(幕府)VS鎌倉公方」という構図がいつ生じたかは定かでないが、応永二四年(1417)に京の幕府が宇都宮持綱を上総(千葉県)の守護に推挙し、持氏がこれを拒んだ辺りから顕著になり始める。

 当然、幕府は持綱に持氏の指示に従わないよう命じて、関係はさらにこじれ、その後も両者は守護人事を巡り、ことごとく対立する。

 また、ほぼ同時に持氏は幕府に親密な態度を示していた関東の武士らを攻め、関東から幕府色を取り除こうと図った。

 すると今度は幕府が、攻められた彼らを「京都扶持衆」として組織化。さらに持氏が鎌倉府にとって獅子身中の虫というべき彼らを攻め滅ぼすという悪循環に陥った。

 こうして両者が一触即発の状況となり、一時、義持が武蔵府中(東京都)まで出陣して幕府と対決する姿勢を見せたが、このときは自重した。

 そうして永享一〇年(1438)、いよいよ大乱が勃発。この争乱は幕府の代弁者である鎌倉府のナンバー2(関東管領)上杉憲実との対立という形で始まった。

 まず、この年の六月、持氏は嫡男賢王丸を将軍義教(六代)の偏へ ん諱き を受けずに元服させようとした。将軍から諱いみなの一字を受けることは名誉な話で、逆にいうと偏諱を受けないのは将軍を認めていないというのと、ほぼ同義といえた。

 事実、持氏は、五代将軍義持が跡継ぎを残さず他界し、くじ引きで決められた義教を将軍と認めていなかったのだろう。

 しかし、関東管領の憲実がこれに反発し、賢王丸の元服式への参列を拒んだ。こうして八月、持氏が憲実を討つという噂が流れ、憲実は鎌倉から本拠地である上野平井城(群馬県藤岡市)へ難を逃れるのだが、そのとき、『永享記』などの軍記物は春日大明神のご霊光が現れたと記している。

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