「関東戦国時代」の引き金になった永享の乱「知られざる要因と行方」 (3/3ページ)

日刊大衆

軍記物は憲実側に正義があると解釈していることが分かる。

 持氏は上野へ下国した憲実を攻める決意を固め、再び武蔵府中に入り、軍勢を上野へ派遣した。

 しかし、幕府が憲実を救援するための軍勢を向けると、鎌倉公方軍は箱根、足柄(神奈川県)から攻め寄せる軍勢に敗北。しかも、持氏は味方の三浦時高の裏切りに遭い、留守にしていた鎌倉を奪われた。その奪還を図ろうとするものの、一一月に降伏し、鎌倉で囚われの身となって、翌年二月に自害して果てる。

 こう見てくると、史料で「大乱」と呼ばれるにはあまりにあっけない幕切れに思える。そこで乱が勃発する二年前の永享八年に戻って再考してみよう。

 その年、持氏は幕府方の信濃(長野県)の守護小笠原政康を討とうとし、憲実がそれをいさめる事件があった。

 つまり、憲実は幕府との融和を図ろうとして持氏と対立し、翌永享九年にも、持氏が憲実を討つという噂が流れ、このとき憲実は藤沢(神奈川県)へ退いている。

■憲実判断が裏目に出て戦火が関東全域に拡大

 こうして永享一〇年八月に、例のご霊光とともに憲実が本拠の上野平井へ発つわけだが、幕府幹部(管領)の細川持之の書状などから憲実の動きは事前に幕府と示し合わせていたことが窺える。

 ただし、憲実が幕府軍と呼応するなら箱根方面へ向かうべきだが、逆方向の上野へ逃れたのは、彼の中にはまだ持氏と幕府の融和に期待するところがあり、直接対決をためらったためだろう。だが、のちの展開を見ると、その判断が裏目に出たといえよう。箱根方面の南関東のみならず、北関東でも鎌倉公方方と幕府方の武士たちが戦い、戦火を広げる結果になったからだ。

 しかも、乱終結後の永享一二年(1440)に下総(茨城県)の結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵(結城合戦)し、戦乱は収まらず、やがて、この

「鎌倉公方vs関東管領・幕府」の対立軸が享徳の乱を招き、関東の民衆は戦禍に喘ぐのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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