鷹狩りは巳の刻以降に。その理由は?徳川家康のブレーン「南光坊天海」かく語りき【どうする家康 外伝】
徳川家康のブレーンとして活躍した名僧・南光坊天海。108歳という伝説的な長寿を誇った天海は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えました。
長く活躍したぶんエピソードも多そうですが、今回は家康とのこんなやりとりを紹介したいと思います。
※今回紹介する文献は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』。いわゆる家康伝説や創作も入り混じった後世の史料ですが、これが事実かどうかよりも「まぁ、そんな事もあったかも知れないな」程度にお読みいただいて、家康や天海たちに興味を持って貰えたら嬉しいです。
鷹狩りは巳の刻以降に。その理由は?家康のブレーンとして活躍した南光坊天海。明智光秀がなりすました説も?(画像:Wikipedia)
家康が豊臣家を滅ぼし、ついに天下を統一した後のこと。家康はいつもの通り、趣味の鷹狩りに勤しんでいたと言います。
「さて、明日は何時(なんどき)に始めたら良かろうかのう」
天海に尋ねる家康。現代なら「そんなもん、自分で決めろ」「あんたがトップなんだから、決めれば誰も文句は言わんよ」などと思ってしまいそうです。
しかし当時は日によって時刻や方位の吉凶が大きく異なるため、いちいち占ってもらっていたのでした。現代でも「日取りがよい、悪い」なんて言いますよね。
で、家康に尋ねられた天海は答えます。「巳の刻(みのこく。朝10:00ごろ)がよろしゅうございましょう」答えを聞いた家康は、何か気づいたように訝しみます。
「そなた最近、ずっと『巳の刻がよい』と言っておらぬか?」運勢や吉凶は日々変転するはずなのに、いつもいつも同じ時刻が吉なのはおかしな話し。
「よもやそなた……」手抜きをしているのか、あるいは何か呪詛でもしかけようと企んでいるのか。猜疑心の塊となった家康ですが、天海は涼しい顔で答えました。
「何をおっしゃる兎さん。生死を分かつ戦であれば、日時の吉凶次第で時刻にも敏感になりましょう。されど今や四海一統あそばされ、世に何のご心配もなく鷹狩りに興じていられるのですから、多少のことはお気に召されるな」
「ふむ。一理あるようには聞こえるが……では、毎回巳の刻と申す理由は?」
「はい。あまり朝早くからお出かけになりますと、お供の者たちが暑さ寒さにしんどうございましょうからな」
要するに、家臣たちの体調に気遣っていたようです。あなたはただ出かけるだけだから何時でもいいだろうし、何なら少しでも早く鷹狩りに行きたいのでしょう。しかしそれに付き合わされる身にもなっていただきたい。
遠回しにそう言われているようで、少し反省した家康。以来、鷹狩りは巳の刻以降に行われるようになったそうです。
終わりに……世治りて後御狩に出立せ給ふに。明日は何時に御出がよきといふを。いつも天海僧正に問しめらるゝ事なるが。和尚常に巳刻がよしと申。後に御不審に思して。刻限の吉凶も日によりてかはるべきに。御坊は例巳の刻がよしといふはいかなるゆへぞ。天海奉り。さればにて候。御軍陣の時ならば。日時の吉凶方位の向背によりて時刻の遅速も侍れ。只今四海一統して何の御心配もおはしまさず。この時に乗じて鷹を臂にしたまひ。郊外に出て御遊興あるに。時刻の早ければ。供奉の輩暁深くより起出て。寒夜ならば風霜にあたり。夏なれば短夜にくるしみ。いとからくも思ひ侍れば。いつも巳刻と申上るは。御時宜を見はからひての事なりと申上しかば。 君にも和尚の心用こそ。理なれと仰けるとぞ。(及聞秘録。)……
※『東照宮御実紀附録』巻二十四
以上、南光坊天海と家康のエピソードを紹介してきました。時刻の吉凶など気にせず鷹狩りを楽しめるようになって、何よりですね。
家臣たちの本音を代弁する天海はさすがですが、その意見を受け入れた家康も立派ではないでしょうか。
他にも天海には面白いエピソードがあるので、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan