近代日本の国際結婚第一号は明治時代、ドイツ留学生とドイツの女性。以後、続々と国際結婚が誕生

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近代日本の国際結婚第一号は明治時代、ドイツ留学生とドイツの女性。以後、続々と国際結婚が誕生

日本政府が、近代法に基づいて正式に外国人との婚姻を認めたのは1873(明治6)年のことです。

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同年の春に、次のような通達が出されました。。

一、日本人、外国人ト婚嫁セントスル者ハ政府ノ允許ヲ受ケルベシ

一、外国人ニ嫁シタル日本ノ女ハ日本人タルノ允許ヲ失ウベシ

一、日本人ニ嫁シタル外国ノ女ハ日本ノ国法ニ従イ、日本人タルノ分限ヲ得ルベシ

これを受けて、正式な国際結婚も行われるようになりました。明治時代の国際結婚第一号は、翌1874(明治7)年の1月に誕生。三浦十郎という男性とドイツの女性との結婚でした。

三浦は藩校「学習館」の塾頭で、1870年(明治3年)に藩命によりフランスに留学、次いでドイツのボン大学で学びます。そのドイツ滞在中に「クレーセンツ・ゲルストマイエル」という女性と相思相愛の仲になりました。

帰国の日になると、三浦は、後ろ髪がひかれる思いで帰国したのですが、残された彼女の方は諦めずに、三浦を追って、意を決してはるばる日本までやってきたのです。

まるで、森鴎外の『舞姫』のような話ですが、ヒロインのエリスが追い返されてしまったのとは違い、ゲルストマイエル嬢の恋は無事実ったのです。

このとき、二人の結婚式を取り持ったの牧師は、アメリカ人のディビッド・タムソン。前年にちょうど、東京基督(キリスト)公会(新栄教会)を設立したばかりでした。

国際結婚第1号の結婚式を取り持ったアメリカ人のディビッド・タムソン

(守部喜雅 『日本宣教の夜明け―47都道府県それぞれの物語—』より)

当時は、日本男性の国際結婚第一号というので、各新聞に注目されました。三浦はその後、陸軍省を経て大蔵省紙幣寮に勤務。1886(明治19)年に印刷局技師となりました。

また、1872年(明治5年)に、長州藩のイギリス留学生・南貞助とイギリス人女性・ライザ・ピットマンとの結婚が翌1873年6月3日に日本政府太政官によって許可され、これが日本における法律上公式な国際結婚第一号であるとされています。

二人はその後、離婚してしまいました。

その後もイタリアの銅版画家のエドアルド・キヨッソーネ、ドイツ人医師のエルゥイン・フォン・ベルツ、イタリアの彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーサ、イギリス人の文学者のラフカディオ・ハーンなど、西洋から来日した男性を中心に、日本人女性との間に次々と国際結婚がなされるようになりました。

参考

小山騰「明治前期国際結婚の研究:国際事項を中心に」『日本近代研究』Vol.11,1994 守部喜雅 『日本宣教の夜明け―47都道府県それぞれの物語—』(2009 マナブックス)

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