戦国時代になんとハーフの武将がいた!その風貌から「人鬼」と恐れられた戦国武将・和仁親宗と一族の悲劇 (5/6ページ)
そのため、国人衆からの不満が爆発し、肥後国人一揆が勃発しました。
成政に抵抗した隈部親永(くまべ-ちかなが)に呼応して親実や親宗は居城の田中城に籠城。
その数は900人で親宗の三兄・親範や親実の妹婿・辺春親行(へばる-ちかゆき)も一緒でした。
対する鎮圧軍は、小早川秀包(ひでかね)を総大将とした安国寺恵瓊や立花宗茂を含んだ1万人で田中城を包囲しました。
和仁氏の悲劇的な最期
約10倍の兵力差にもかかわらず、親宗たちは2ヶ月間耐え忍びます。和仁氏の必死の抵抗に崩すため、恵瓊は辺春親行を調略したことで親実が討ち取られました。
親実の死をきっかけに、鎮圧軍が田中城に押し入ります。親宗は兄の親範と奮戦しますが、田中城は落城しました。
そして、親範は敵兵を両脇に抱えて城壁から飛び降りて戦死、親宗は母が眠る南蛮毛を目指して敵兵を斬り倒し、行方不明になったと伝わっています。
他説では南蛮毛に辿り着き、その地で自害したともいわれています。ちなみに、裏切った親行は一揆鎮圧後に処刑されました。