これはえげつな!!花山天皇が母と娘それぞれに生ませた皇子たち【光る君へ】 (3/4ページ)
出家したとは言え、花山天皇の影響力は道長が無視できないものだったようです。
そして寛弘8年(1011年)8月に昭登親王と共に元服。成人の証である冠をかぶせてくれたのは藤原実資でした。
同年10月に行われた三条天皇の即位式では、兄弟そろって左右の擬侍従を務めます(清仁親王が上位の左、昭登親王が右)。
長和5年(1016年)に行われた後一条天皇の即位式においては、清仁親王が右の侍従、昭登親王が左の侍従を務めました。この5年間に、兄弟間で立場の逆転があったのでしょうか。
やがて万寿元年(1024年)1月に弾正尹(だんじょうのかみ)となるも、4年後の長元元年(1028年)に出家。そして長元3年(1030年)7月6日に薨去されたのでした。
花山天皇の第二皇子・昭登親王
長徳4年(998年)生~長元8年(1035年)4月14日没
基本的には異母兄の清仁親王と共に行動したようです。かぶる部分は割愛しましょう。
兵部卿(ひょうぶきょう)や中務卿(なかつかさきょう)と言った朝廷の重職を歴任しました。
変わったことと言えば、万寿4年(1029年)に四条油小路で火災が発生した際、延焼のせいか親王邸も焼失してしまいます。
兄の清仁親王とは違い出家はしておらず、兄を亡くして5年後の長元8年(1035年)4月14日、38歳で薨去されたのでした。
終わりに以上、花山天皇が母娘を同時に寵愛し、それぞれ生ませた皇子たちの生涯を駆け足でたどってきました。