開国を求めるも船が難破…日本人と船を作りながらそのまま条約締結までしちゃったロシアのプチャーチンが尊い (2/3ページ)
腹を切り、頭を撃ち抜き…江戸城無血開城の裏側で日本最初のピストル自殺をした川路聖謨とは?
これまで幕府の禁令により、近海用の小型船しか作れなかった中で、大海に乗り出す大型船を作ることになったのです。
3100両という莫大な建築費に、200人の船大工が集められれました。そしてこの時、日本人は初めて、「竜骨」と呼ばれる骨木に肋材をいれるという、洋式帆海の技術を学んだのでした。
プチャーチンは、船建造中の12月21日、幕府側と日露和親条約を調印させることに成功します。その結果、日本は箱館・下田・長崎を、ロシアに開港することになったのです。
翌1855年3月、プチャーチンは、新しく出来上がった船を「ヘダ号」と名付け、仲間と共に再び日本を離れたのでした。
ディアナ号はその後、船体はそのまま引き上げられませんでしたが、海底に沈んだ錨がたびたび魚網を食い破ることがあり、地元の漁民や住民に「唐人のねっこ」と語り継がれていました。
1976(昭和51)年8月、五貫島の三四軒屋沖合水深24mから引き上げられ、1989(平成元)年12月21日、富士市指定有形文化財に指定されています。