薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす (2/4ページ)
第二次長州征伐に失敗した幕府は、いっときその権威が低下しました(その後の改革によって回復していますが)。その隙をついて、さらにこの会議で追い打ちをかけて幕府の力を削ごうと考えたのが薩摩藩だったのです。
四候会議と兵庫開港問題さて、京で四候会議が開かれた時のことです。この会議は、列強から受けていた兵庫開港要求問題と長州藩の処分を問うことを目的に開かれました。
兵庫開港要求問題とは、イギリス公使が幕府に対して兵庫の港を開港するよう求めていたもので、条件は①兵庫と大阪の即時開港②条約勅許③輸入関税改訂、の三つでした。
八月に長州藩へ報復攻撃していた四国連合艦隊は、報復のための遠征費などをあわせて巨額の賠償も要求していました。しかし兵庫開港の条件を呑めば、未払いの賠償金は放棄するとしていたのです。
イギリスとしては、幕府がこの問題を先延ばしにするなら朝廷と直談判するつもりでした。
この問題は、一度は慶喜が上手にあしらっています。彼は新将軍就任後、イギリスとフランスそれぞれの公使に、慶喜が全権掌握していることを告げました。一方で朝廷には、許しがなければ開国の布告はしない、と宣言します。見事な二枚舌でした。
結局、慶喜はフランスを味方につけてイギリスを一蹴。そこでイギリスは薩摩に接近し、兵庫開港問題を使って雄藩を焚き付け、幕府を追い詰めようと入れ知恵していました。
実際、薩摩はこの問題を利用して幕府に迫っているのですが、慶喜は「江戸や大坂ではなく、鹿児島と下関を開港すればいいんじゃない?」などと、完全にコケにしています。