妻と妹の七光り?で大出世!蛍大名と呼ばれた戦国武将・京極高次の出世までの軌跡を紹介 (2/4ページ)
また、出雲・隠岐・飛騨・近江の守護も兼任していましたが、応仁の乱時に起きた家督争いである京極騒乱によって衰退。家臣であった浅井家に唯一残った北近江を乗っ取られてしまいます。
永禄3年(1560)に高次の父・京極高吉は六角家と手を組んで浅井長政と戦いますが、負けてしまったことで北近江の支配権を完全に奪われてしまいます。
また、高吉は長政の姉・京極マリアと婚姻し、永禄6年(1563)に高次が誕生しました。
この時の京極家は室町幕府将軍の近臣として仕えていましたが、足利義昭が織田信長と対立すると、信長とは一戦交えないことを証明するために高次を人質に出しました。
情勢が読めず、負けた側に付いた
そのまま信長の家臣となった高次は近江国に5000石の領地を与えられました。
順調にいけば織田の家臣として終えるはずが、天正10年(1582)に本能寺の変が起こります。
弔い合戦として起こった山崎の戦いで高次は、妹・竜子の嫁ぎ先だった武田元明(若狭国の守護大名)が光秀に味方したため、明智方につきました。
戦いの結果は明智方の惨敗で、高次は追われる身となってしまいます。
この時に頼ったのが、お市の方の再婚先だった柴田勝家。しかし、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いを機に起きた北ノ庄城の戦いで勝家が自害すると、高次は遂に路頭に迷ってしまうことになります。