あまりにも壮絶すぎる…13歳の実娘が切腹の介錯をした戦国武将・黒木家永の波乱に満ちた生涯 (2/4ページ)
黒木氏の当主が家永に就任すると態度を一変。大友氏に反旗を翻し、戦う構えを見せ始めます。
しかし、大友氏の家督を継いでいた大友宗麟が永禄7年(1564)に家永のいる猫尾城に向け、1万の軍を進めました。
家永は1000人にも満たない兵数でありながら、大軍だった大友軍と果敢に戦いました。それでも数には勝てず、敗北してしまったことで再び大友氏に仕えます。
大友から龍造寺へと鞍替え
宗麟に再仕官した家永は元亀元年(1570)の今山の戦い、天正6年(1578)の耳川の戦いに従軍しますが、いずれも敗北。特に耳川の戦いでの敗戦は大友氏の衰退を招いてしまいます。
これをきっかけに龍造寺隆信が筑後に侵攻し、家永は筑後十五城だった蒲池鎮漣(かまち-しげなみ)や田尻鑑種(たじり-あきたね)、西牟田鎮豊(にしむた-しげとよ)らと共に隆信に仕えました。
しかし、天正9年(1581)に蒲池鎮漣が謀殺され、一族が滅ぼされる事件が起こります。
その中に家永の弟・蒲池益種もおり、親戚関係だった蒲池氏と弟を殺害された家永は大激怒。隆信に反旗を翻しました。
家永は猫尾城で籠城しますが、龍造寺政家・鍋島直茂に包囲され、肥前の国人である草野家清の仲裁で和睦しました。その際に嫡男の黒木延実を人質に差し出しています。