逃げ出した指揮官…幕末「鳥羽・伏見の戦い」で圧倒的戦力の旧幕府軍が敗北した理由【後編】

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逃げ出した指揮官…幕末「鳥羽・伏見の戦い」で圧倒的戦力の旧幕府軍が敗北した理由【後編】

勝敗を分けたのは…

【前編】では、鳥羽伏見の戦いで、実は新政府軍の装備は旧幕府軍に比べて非常に劣っていたことを説明しました。

ナメていた旧幕府軍…幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が圧倒的戦力の旧幕府軍に勝利した理由【前編】

では、そんな新政府軍がこの戦いで圧勝したのはなぜだったのでしょう?

鳥羽・伏見の戦いで征討大将軍に任命された小松宮彰仁親王の像

答えはシンプルで、兵たちの戦意の高さと指揮官の質に差があったのです。

当時の新政府軍の兵たちは、かなりの士気の高さでした。何せ、ここで負ければ政府の崩壊につながりかねません。

しかしその一方、旧幕府軍は強大な兵力と最新鋭の兵器にすっかり慢心し、戦意も低かったのです。簡単に言えば、新政府軍をナメていたんですね。

逃げ出した指揮官

当時の流れを追ってみましょう。1868年1月3日の午前、旧幕府軍は京都へ進軍。鳥羽街道を守っている薩摩兵に接触しました。

街道の起点にあたる四塚関門を封鎖していた薩摩兵たちと、指揮官の大目付・滝川具挙は直談判に及びます。しかし、もちろん薩摩兵は通過を許しません。

この時、薩摩兵は「京から通行の許可が下りるのを待っていてくれ」と伝えます。

それに従って、その場にとどまった幕府軍。彼らはこの場は話し合いで収めようと考えていたこともあり、すぐに戦闘とはなりませんでした。

そのため、幕府軍は全く戦闘準備を取っていなかったのです。銃には、弾も込められていなかったと言われています。

明治維新・伏見の戦跡碑(Wikipediaより)

そうこうしているうちに日没になり、旧幕府軍は前進する動きを見せました。薩摩兵はこの機に乗じて幕府軍を包囲すると、まったく無防備だったところに攻撃を仕掛けたのです。

当然、幕府軍の歩兵たちは大混乱に陥ります。混乱したのが歩兵だけなら良かったのですが、なんと指揮官の滝川は馬で逃げ出してしまいました。発砲に驚いた馬が後方へ退いたのですが、彼はそのまま前線に戻らなかったのです。

実はこの時、鳥羽街道を進む諸部隊の本来の総指揮官だった陸軍奉行・竹中重固は、京街道で伏見に向かっているところでした。彼もまた、部隊を捨てて遁走してしまいます。

つまり鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍はほとんど不意打ちの形で攻撃を受けた上に、指揮官を欠いた状態だったのです。

滝川具挙の末路

他の戦闘地でも、例えば狭い地形であるにもかかわらず、指揮官が戦国時代さながらの密集陣形を採用したことなどが幕府軍の敗因として挙げられます。彼らは伏兵や十字砲火の餌食となり、最初は1万5千人もいた歩兵たちはすっかり無駄になってしまいました。

このように、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗した理由は、ハードではなくソフトの側にあったといえるでしょう。

当時の幕府軍は、装備も兵器も質・量ともに新政府軍を上回っていたのに、士気の低さと指揮官の失敗によって大敗を喫したのです。

ちなみに、鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切って落とされたまさにその時、前線を離脱してしまった指揮官・滝川具挙は1月12日に江戸へ戻ります。

永井尚志(Wikipediaより)

そして2月9日には、若年寄の永井尚志と同役の戸川安愛などとともに免職されて寄合となりました。さらに翌10日には官位を召上げられた上に江戸城への登城を禁止され、19日には逼塞となっています。

幕府側からここまで処罰を受けたわけですが、さらに4月7日には、新政府から鳥羽伏見の戦いの責任者として改めて永蟄居に処されました。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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