皇族にして朝敵!幕末期、最後まで幕府側に「義」を貫いた北白川宮能久親王の波乱の人生 (3/4ページ)
彼が輪王寺宮になったのは1867年。その翌年には、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜を訪ねています。そして、徳川家の存続を嘆願する嘆願書を、東征大総督だった有栖川宮熾仁親王に渡しました。しかしこれは拒絶されます。
その後も、能久親王は帰還せず上野に駐留します。その理由は、皇族が不在になると上野は戦場になる可能性があり、旧幕臣や豪農・豪商たちが嘆願書を出したためとも言われています。
しかし、結局このあたりも戦場となりました。能久親王も、幕府の残党で結成された彰義隊を助けますが、最後は江戸を追われることになります。
奥羽越列藩同盟、そして…ここからが、この能久親王のすごいところです。彼は幕府の海軍に拾われて、翌月には会津若松へと逃げ延びました。そして、東北諸藩が新政府軍に対抗して同盟を組んだ奥羽越列藩同盟の盟主となったのです。
鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗を掲げた新政府軍に敵対したわけですから、皇族にして朝敵・逆賊ということになります。それでも能久親王は本気でした。江戸にいた側近たちに、「速に仏敵朝敵退治せんと欲す」などという書き置きまで残していたのです。
しかし、奥羽越列藩同盟がうまくいかなかったのはご承知の通り。