大河ドラマ『光る君へ』紫式部「藤原道長夜這いの真意とは」 (2/2ページ)

日刊大衆

このため、天皇と娘の彰子の間に皇子をもうけたい道長が、定子に負けないような文化サロンを作ろうと、妻・倫子と又従姉妹の関係であり、『源氏物語』で有名になりつつあった式部に白羽の矢を立てたとされる。

 そもそも彼女が『紫式部日記』を書き始めたのは寛弘五年(1008年)、彰子が道長にとって念願の天皇の子(後の後一条天皇)を宿し、その皇子出産のために土御門邸へ里帰りしたとき。当然、日記では道長に温かいまなざしを向けている。そうして、翌年のある夜、事件は起きた。

 式部の部屋の戸を誰かが叩き、彼女がじっと身を潜めていると、翌朝、歌が贈られてきたので歌を返したという。情を交わした男女が、こうした歌のやりとりをするのは常識だった時代で、この戸を叩いた男が道長であったのは他の史料で確認できる。

 ただ『紫式部日記』には、「恐ろしさにそのまま答えをしないで夜を明かした」とあり、式部が時の左大臣の夜這ばいを気丈にも断った形だ。後世、この解釈を巡り、「そう何度も断れないので最後は道長のオンナになった」と解釈される。

 しかし、天皇の平均寿命が30代の当時、道長はこのとき44歳で、まずまずの高齢。もちろん、藤原実資のように55歳で娘をもうけた例もあるが、実資は女好きで知られる公卿。筆者は、式部が好意を抱いていると知る道長がからかう気持ちで戸を叩き、式部を驚かせてやろうとしただけのような気がするのだが……。

跡部蛮(あとべ・ばん)歴史研究家・博士(文学)。1960 年、大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。
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