「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【後編】 (2/4ページ)

Japaaan

岩倉具視の側近だった国学者・玉松操が旗をデザインし、岩倉がそれをもとに大久保利通と品川弥次郎に旗を作らせたのです。

素材となる布地は大久保利通が調達し、長州藩内の養蚕施設の中で「錦の御旗」は密かに製造されました。この施設は人の出入りが厳重に管理されていたといいます。

こうして、一か月をかけて秘密裏に作られた数本の錦の御旗は、山口城と京の薩摩藩邸に運び込まれます。そして戦いの最中、薩摩郡の本営があった東寺に二本の御旗が掲げられたのでした。

全ては、天皇の威光を利用して戦況を少しでも有利に導くための策略だったのです。

戦場への影響

この経緯を見ると、錦の御旗は「偽物」であり「偽造」だったと言えるのではないか? 新政府軍のやり方は天皇に対して失礼ではないか? と思われるかも知れません。

これについては、密造された錦の御旗については、朝廷から使用許可を得ていたと言われています。しかし薩長が密造した旗を「本物」と言っていいのかどうかは、研究者の間でも意見が一致していません。

かの大久保利通も「錦の御旗」の密造にひと役かった

さて、この「密造」された錦の御旗が掲げられた際、鳥羽伏見の戦場では大勢が決していました。よってこれによって新政府軍がドラマチックな大逆転を果たしたわけではありません。

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