初期の明治新政府を運営したのは薩長ではなく公家だった!~ 公家による政治運営から内閣制度発足まで【後編】 (2/4ページ)
ここで、薩長のバランスを取るために左大臣に伊藤博文を、右大臣に薩摩出身の黒田清隆を据えるという案が浮上します。
しかし黒田清隆には妻殺しの疑惑がありました。また黒田としても、実力ではなくバランスのためだけに自分が大臣に選ばれるのは面白くなかったようです。
一方の伊藤も、どうせなるなら左大臣とかではなく太政大臣がいいと考えていました。ただ問題は、彼が下級武士出身であることです。下級武士を太政大臣にするというのはとんでもない話でした。
そこで、太政官制度を廃止して、内閣制度に置き換えようという案が出てきたのです。
「初代内閣総理大臣」の誕生そもそも太政官制度と内閣制度は、どのような点が違うのでしょうか。太政官の場合は、「●●卿」と呼ばれる閣僚たちの上に、大統領的なポジションで太政大臣がいるというイメージです。
一方の内閣制度は、閣僚たちはあくまでも横並びの存在であり、その中の首席である「首相」が政府の第一席ということになります。
太政大臣の三条実美としては、内閣制度の採用は避けたいところでした。