暗殺が横行した江戸時代の幕末に「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【後編】 (2/4ページ)

Japaaan

まず安政の大獄での尊王攘夷派の志士弾圧に関与した、京都町奉行の役人や与力(本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞など)などを暗殺しました。この頃、岡田以蔵は「天誅の名人」と呼ばれていました。

その後、岡田以蔵は武市が京都にいる間に脱藩して江戸へ逃亡します。この頃から土佐勤皇党とは疎遠になりはじめ、暗殺はやめて高杉晋作の居候になったり、幼馴染みの坂本龍馬の紹介で暗殺とは真逆の勝海舟の護衛をしたりします。しかし、酒におぼれ身を崩し、無宿者となります。

岡田以蔵の末路

八月十八日の政変(尊攘派の公家である三条実美や支えていた長州藩などを朝廷から排除したクーデター)後に土佐勤皇党の勢いも失速し、土佐藩主山内容堂による土佐勤皇党の弾圧が始まりました。
その頃、以蔵は金がなくなり、商家へ押し入ったところを捕縛され犯罪者として土佐へ搬送されます。搬送後、同士が拷問に耐える中、以蔵は耐えきれず自分の罪状や加担した同士を洗いざらい喋ってしまい、土佐勤皇党崩壊のきっかけとなってしまいます。結局、岡田以蔵は打ち首、獄門での最期となりました。享年27歳。

土佐勤皇党のため、武市半平太の恩に報いるために人斬りとなった岡田以蔵。素行の悪さと土佐勤皇党大獄のきっかけを作ったため、土佐勤皇党の顕彰碑に名前が刻まれることすらなく、空しい末路となったのです。

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