幻と消えた「徳川新政府」構想!実は徳川幕府が先に議会開設・普通選挙・象徴天皇などを考えていた (2/4ページ)
実際、大政奉還の上表文にも「広ク天下ノ公儀ヲ尽クシ」という一文があり、これは幕府消滅後の議会開設を謳ったものと解釈されています。
つまり徳川幕府は、明治維新後に自由民権運動でようやく実現したとされている議会制の導入を、それよりもずっと以前から計画していたことになります。
西周による立憲君主制と「象徴」天皇制また、こうした先進的な政治体制は、徳川慶喜ひとりが構想していたわけではありません。幕臣によって、具体的な改革案も起案されていました。
もともと慶喜の側近だった人で、新体制の構想作業でも中核の一人として活動したことで有名な西周(にし・あまね)という人物がいます。
西は、幕臣である平山敬忠に「議題草案」を提出し発案しています。司法、立法、行政が独立した三権分立を主軸とする立憲君主制度だったのです。
これは「王は君臨すれども統治せず」の原則に基づくイギリス議会を参考にしたと言われています。
もともと西周は欧米への留学経験もあり、慶喜に外国語を教えた事でも有名です。東京大学の前身である開成所の教授も務めたほどの人で、海外の政治体制に関する知見や知識が豊富だったのです。
西の構想はこうです。