ヒーローなんかじゃない!?実は江戸や東北の庶民からはブーイングの嵐だった「明治新政府」の存在
「明治維新」を庶民はどう受け止めたか
幕末期から明治維新にかけての「倒幕」から新政府樹立までの流れについては、肯定的に捉えている人も多いと思います。
そうした場合のイメージは以下のようなものでしょう。
黒船来航から急激な物価上昇が起こり、庶民が苦しむなかで現れた諸藩の志士たち。彼らは倒幕を目指し、新しい世を目指す勢力に人々は希望を抱いた。そして明治維新ならびに明治新政府を、歓迎して受け入れた——。
これは、ヒーローもののストーリーのようにして捉えればよくできたお話です。しかし事実は大きく異なっています。
確かに、当時の庶民には新政府寄りの人々も多くいましたが、佐幕派の影響が残る関東・東北では、新政府に反発する声も大きかったのです。特に、特に江戸の庶民は薩長を懐疑的に見る傾向がありました。
今回は、そんな庶民の実態を見ていきましょう。
錦絵から浮かび上がるイメージ幕末期の激動を経て、幕府は政治的には弱体化しました。しかし、江戸で暮らす大多数の庶民の中にあった幕府への信頼感は揺らいでいませんでした。
むしろ庶民は将軍家に親しみを抱いており、江戸の治安を脅かす薩摩や長州を煙たがっていました。
そうした事実は、当時非合法に発行されていた風刺絵から読み解くことができます。
江戸時代を通じて、庶民は政権を批判することを厳しく禁じられていました。このため、新政府ができてもこれを批判する手段を持っていませんでした。新聞のようなマスメディアも、当時はまだ生まれていなかったのです。
しかし、慶応4年(1868)の春頃から状況は変化します。風刺目的の錦絵が大流行したのです。
幕府は、印刷物については発行者を明記するよう義務づけらていましたが、その幕府がなくなったためか、発行元を記さない錦絵が大量に出回りました。
それらは、戊辰戦争を相撲に見立てたものや、旧幕派と薩長の対立を忠臣蔵で表したものや、くじ引き会場で会津が一等を取るように願うもの、会津が薩長を追い払う様子を描いたものなどだったのです。
こうした錦絵が庶民の間でウケて、江戸だけで30万部も売れたというから驚きです。
実は多くの血が流れた明治維新江戸の庶民が旧幕派を応援したのは、新政府軍の横暴に嫌気が差していたからに他なりません。薩摩は幕府を挑発するために一般庶民を襲い、幕府寄りの商屋を焼き討ちするなどしていました。テロです。
江戸城が明け渡された後もこうしたテロは終わらず、庶民の間では不安が広がる一方でした。
江戸庶民の証言を集めた『戊辰物語』にも、新政府軍について「つまらない言いがかりでよく町人を斬った」「吉原ではひどく嫌われた」「薩摩藩邸は追い払われたのに強盗が未だ出没する」など、新政府軍の横暴を伝える証言が多く掲載されています。
この『戊辰物語』は昭和3年(1928)から始まった東京日日新聞の連載記事をまとめた本なので、証言が脚色されている可能性は否めません。
しかし、これらの記事からはインタビューを受けた人々の生々しい声が伝わってきますし、こうした非難記事がウケたのも事実です。人々は「さもありなん」と思いながら、こうした記事に目を通したのでしょう。
さらに、江戸の庶民よりもさらに強く、新政府に対して不満を抱いていた地域があります。戊辰戦争の舞台となって荒廃した東北地方です。
特に会津では、新政府の兵によって村々が略奪・放火され、婦女暴行も相次ぎました。現在でも、当地では薩長、特に鹿児島への反発心は根強く残っています。
小説やドラマなどの影響で、明治維新はカッコいいヒーローによる「善き改革」だったというイメージが根強いです。また「無血開城」などという言葉が使われているため、明治維新は流血沙汰のない、世界史でも稀に見る平和な革命だったと思っている人も多いでしょう。
しかし、実際にはかなり強引で無理やりなところもあり、たくさんの人々の血が流れたことを忘れてはいけません。実際、明治維新は薩長によるテロだったと論表する人も最近は出てきています。
明治新政府は、多くの庶民の憎悪と非難を浴びながらの船出となったのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
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