関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】 (2/3ページ)
関ケ原の戦いに敗れた西軍の総大将・石田三成
最期まで大志を諦めない!天下の義将・石田三成がリクエストした「最後の晩餐」とは? 長男・石田重家生年月日は定かではない。母は三成の正室「皎月院(こうげついん)」。1583年または1587年頃に石田三成の嫡男として誕生したと考えられている。
1600年に関ヶ原の戦いが起こると、豊臣家の人質として大阪城に留まったとされる。西軍の敗戦が決まると京都妙心寺に移り、住職の「伯蒲慧稜(はくほえりょう)」によって剃髪、仏門に入る。
1686年に死去。正確な生年月日が不明なため享年はわかっていないが、関ヶ原の戦い以前に誕生していたことは事実であり当時としてはかなりの長寿であった。また、一説には仏門に入る以前に結婚し子供をもうけており、妻子は重家が仏門に入った後、徳川家康の次男・結城秀康に保護され子孫が続いたという。
次男・石田重成
長男重家と同様、皎月院の子供である。生年月日は不明。1588年説が有力だが定かではない。

