邪馬台国の場所「九州説vs畿内説」はもう古い?邪馬台国と倭の情勢を国際関係から読み解く【後編】 (2/3ページ)
これは呉王朝で使用されていた年号で、こうした銅鏡の出土は決して多くはないものの、発掘範囲は山梨・兵庫・京都と広域に及んでいます。
また、これはそもそもの話なのですが、日本に稲作が伝来した経路のひとつは、呉があった江南地方だったとされています。
これらのデータを踏まえて総合的に考えてみると、もともと、倭では魏よりも呉との通行・交流が多くあったと考える方が自然だと言えるでしょう。
俯瞰的な視点で読み解くと少しだけ中国・朝鮮史の話になりますが、三世紀前半という時代は遼東半島や朝鮮半島北部で公孫氏が勢力を持っていた時代でした。
遼東半島と江南は、昔から海路での通交があり、公孫氏が江南の呉と手を結んで勢力を伸ばすことは魏にとって脅威でした。
そこで238年、魏は公孫氏を討伐し、遼東半島・朝鮮半島北部を支配したのです。
卑弥呼が魏に使いを送った239年の三国時代は、まさにこういう状況でした。これらのことを踏まえると、邪馬台国と魏の関係も少し立体的に解釈できそうです。