だから言ったのに…何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【後編】

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だから言ったのに…何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【後編】

仲間の裏切りで父と祖父を亡くし、自身も当主の座を剥奪された龍造寺隆信。

幼少期から繰り返される裏切りにより、冷酷で疑り深く人を信じない性格へと変貌した彼はどのような人生を歩んだのでしょうか。

後編となる今回は、人間不信に陥った「龍造寺隆信」波乱の生涯を振り返ります。

【前編】の記事はこちら↓

何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【前編】

人生最大のピンチと天才軍師

佐賀県重要文化財の龍造寺隆信像(Wikipediaより)

龍造寺家当主にもどった隆信は、肥前国統一に向けて勢力の拡大を図りました。以前にも増して野心に燃える彼は、かつての主君・少弐氏にまで攻撃を仕掛けて自害させています。

隆信は、龍造寺家の急激な勢力拡大に危機を感じて同盟を組んだ周辺領主たちも容赦なく叩き潰し、1562年には肥前国東部を完全支配。現実的ではないと批判された野望も目前にまで迫っていました。

野望に燃える隆信の前に立ちはだかったのが、豊後国(現在の大分県)で大きな勢力を築く「大友宗麟」です。

1570年、大友宗麟は大軍を率いて肥前国へ侵攻。隆信の居城・佐嘉城も包囲されてしまいます。

絶体絶命のピンチ到来に際し、隆信の家臣・鍋島直茂は奇襲作戦を提案。鍋島直茂は戦国時代の名軍師に名が挙がる戦略家です。

人間不信に陥っていた隆信ですが、鍋島直茂の言葉に従い敵陣への奇襲作戦を決断します。結果的に奇襲作戦が成功したことで、大友軍を怯ませることができました。

数ヶ月間続いた隆信と大友宗麟の対決は、和睦により終結。不利な戦況を持ち堪えた龍造寺陣営にとっては勝利ともいえる結果でした。

だから言ったのに…ダサすぎる隆信の最期

1578年、隆信は念願だった肥前国統一を果たします。
1580年になると、隆信は家督を息子に譲って酒に溺れる隠居生活を謳歌。隠居後は太り過ぎを家臣に注意されるほど、体重が増えていたといいます。ただし、実質的な政権は隆信が支配しており、野心はまだまだ尽きていなかったようです。

その頃、薩摩国(現在の鹿児島県)を拠点に構える「島津氏」が九州最強の「大友宗麟」に勝利しました。

九州の最大戦力が消えた隙を狙い勢力拡大を図った隆信は漁夫の利を得て、肥前国・豊前国・筑前国・筑後国を支配。見事に急成長を果たした龍造寺家ですが、裏切りを図った者や命令に背いた者は一族郎党皆殺しにするなど、隆信の独裁は家臣たちの反感を招きました。

そして1584年、龍造寺家の家臣・有馬氏が急成長を果たす島津家に寝返ります。この裏切りに激怒して有馬討伐を宣言した隆信は、新進気鋭の島津氏と激突。2倍以上の戦力差に勝利を確信していた隆信ですが、敵将・島津家久の戦略「釣り野伏せ」により大敗してしまいます。

「釣り野伏せ」とは、苦戦を演じて退却し、敵軍が追撃にきたところを伏兵で挟撃する戦法でした。

突然の伏兵に対処できなかった龍造寺陣営は混乱状態に陥り、総大将の隆信は酒による太り過ぎが原因で馬に乗れず逃げ遅れてしまいます。

逃げ遅れた隆信は戦場で敵兵に討ち取られて死亡。戦場で死亡した戦国大名は今川義元と龍造寺隆信の二人だけであり、あまりにも不名誉なものでした。

幼少期より「裏切り」に人生を狂わされ、念願の肥前国を統一した慢心によるものだったのでしょうか。

家臣に指摘された体型を見直さなかったことが自身の死に繋がってしまう結果に。慢心さえなければ優秀な戦国大名であっただけに不憫でなりません。

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