幕末、池田屋事件に巻き込まれ新撰組に討たれてしまった維新の志士・石川潤次郎とは何者か? (2/3ページ)
半平太)らによって土佐勤王党が結成されると、潤次郎は77番目に加盟します。
土佐勤王党員として潤次郎がどんな活動に従事したか、詳しいことは分かっていません。
やがて土佐勤王党が土佐藩参政(家老)の吉田東洋(よしだ とうよう)を暗殺すると、土佐藩当局は土佐勤王党の弾圧に乗り出します。
武市瑞山ら首脳部は切腹や斬首など重刑に処され、土佐勤王党は壊滅状態となりました。
この時に大した処分を受けた記録がないことから、恐らく潤次郎はそこまで重要な地位を占めていなかったのでしょう。
やがて元治元年(1864年)になると、潤次郎は土佐藩の命によって京都黒谷(くろだに。京都市左京区黒谷町)にある三条家別宅の警固を命じられました。
池田屋事件に巻き込まれる
京都に出てきた潤次郎は、かつて土佐勤王党の同志で脱藩していた望月亀弥太(もちづき かめやた)と再会します。
土佐勤王党の弾圧後、江戸で坂本龍馬や勝海舟らと交流する中で、土佐藩の帰国命令を拒否。京都の長州藩邸に潜伏していたのでした。
「おお、望月君。息災であったか」
「あぁ。風雲急を告げる昨今、国許に帰ってのうのうとなどしておれぬ。今は尊皇攘夷の先駆けとして、国事に奔走しておる」
などと言ったかどうか、二人は旧交を温めます。
そんな元治元年(1864年)6月5日、潤次郎は望月と約束でもあったのか、望月のいる池田屋を訪ねました。
「やあ石川君。