三条天皇に入内した藤原道長の次女・藤原妍子とはどんな女性だったのか?【光る君へ】 (2/3ページ)
しかし父を疫病(天然痘)で亡くしてからは後ろ盾を失い、三条天皇の寵愛だけが恃みというもろい状況。次第に追い込まれていきます。
一方で父・道長の強力な後押しによって地位を確保していった妍子ですが、三条天皇からは「道長の手先」として疎まれたであろうことは想像に難くありません。
それでも長和2年(1013年)7月6日には禎子内親王(ていし/よしこ)を生みますが、子供は彼女一人きり。皇子を生むことはなく、妍子は道長の失望に苛まれたことでしょう。
長和5年(1016年)に三条天皇が道長の圧力に屈して敦成親王(あつひら。一条天皇と藤原彰子の子。後一条天皇)に皇位を譲ると、皇太后となった妍子は枇杷殿皇太后(びわどのこうたいごう)と呼ばれました。
寛仁元年(1017年)5月9日に三条天皇に先立たれ、妍子は遺された一人娘の禎子内親王を大切に育て、万寿4年(1027年)に禎子内親王が敦良親王(あつなが。のち後朱雀天皇)へ入内するのを見届けます。
これで思い残すことはないと安堵したのか、同年9月14日に崩御したのでした。享年34歳。
藤原妍子はどんな女性だった?
三条天皇の外戚となった父の威光で権勢を極めた藤原妍子。
政治の道具に使われ、夫からは愛されなかったであろうその生涯に、悲しさを感じずにはいられません。
そんな妍子は悲しみを紛らわすかのように派手好きだったらしく、姉妹一と言われた美貌と相まって内裏に華を添えていました。
また和歌にもすぐれ、妍子のサロンは大和宣旨(やまとのせんじ。