怒り狂い刀を振り回し、女中を叱り飛ばし…徳川家康の名君イメージは作られたものだった。その実像とは? (2/4ページ)
戦いの最中、伝令兵が家康の乗る馬に誤って接触すると、家康は怒って伝令兵に斬りかかったのです。伝令兵は謝罪して任務に戻りましたが、怒り狂った家康は刀を振り回し続けていたといわれています。
また小早川秀秋の裏切り工作の最中も、寝返る予定だった小早川が動かないことに苛立ち、家康は家臣が諌めるまで爪を噛み続けたいう記録があります。
その後も芳しくない状況に苛立ちを隠せず、ついには苦戦する味方への憤りから、後方に控えておくべき本隊を前線へ進ませる失態まで犯しているのです。
さらに、戦場以外に目を転じても似たような話があります。薬の研究に熱心なあまり彼は医者の忠告を無視していましたし、忠告した医者を追放処分にしたこともあります。
また、着物の新調を勧めただけの女中を叱り飛ばすなど、質素倹約というよりはかなりケチな性格だったふしもあるのです。
神になった家康ここまで見てきた家康像は、私たちにとって馴染んできた「鳴くまで待とうホトトギス」のイメージとは大きく異なっていますね。
真相を明かせば、このような「名君」としてのイメージが植え付けられ、よりはっきり言えば「神格化」が進んだのは江戸時代以降のことで、そうした家康像は意図的に広められたものです。
家康の短所が隠され、「完璧な名君」として語られるようになったのは、ひとえに徳川幕府が支配を安定させるためです。
17世紀半ば頃まで、世は戦国の気風を色濃く残しており、東北の伊達や加賀の前田など、徳川の天下を脅かす勢力も少なくありませんでした。
そこで家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすと、徳川家の権力を強化すると同時に自らを神格化して人心掌握を図ることを計画したのです。