怒り狂い刀を振り回し、女中を叱り飛ばし…徳川家康の名君イメージは作られたものだった。その実像とは? (3/4ページ)
元和2年(1616)に彼が死去した後、関八州の守護神にせよという遺言に従い東照大権現として祀られたのは皆さんもご存じのとおりですね。翌年には、家康を祭神とする日光東照宮が徳川秀忠によって造営されています。
支配政策のたまものこうした家康神格化の流れは、徳川家光による東照宮の増築によりさらに推し進められていきます。これにより、家康は関八州どころか日本全土の神へと位置付けられたのです。
また、それだけではなく、家康を崇敬する家光は諸大名に対して東照宮を自国領に造立するよう勧めてまわりました。
家光は、お守り袋に「家康と心も体もひとつ」と書いた紙を入れるなど崇敬していたといいます。
その甲斐もあり、全国に500を超える東照宮が建立され、家康を神とみなす価値観が広がっていきました。
さらに、庶民層への統制も徹底もされました。出版・言論の自由を許さなかった幕府は、家康を批判する出版物を次々に規制したのです。
たとえ内容が事実であっても、将軍家の威厳を傷つける内容であれば、幕府は厳罰をもって対処しました。
こうした幕府の神格化政策と出版統制によって、「神君家康公」のイメージは根付いていったのです。