父から息子に引き継がれる「男色」の歴史!”絶世の美少年”と足利将軍たちとの関係【後編】 (4/5ページ)

Japaaan

身の危険を感じた満祐は、先手必勝とばかりに策略を考えました。1441年(嘉吉元年)、関東平定の祝勝会と称し、足利義教や武将達を自邸に招き宴会を開催したのです。

ところは、突如数十人の赤松満祐の家来が乱入し足利義教を殺害してしまいます。奇しくも、義教が贔屓にしていた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事だったそうです。

これが「嘉吉の乱」の始まりとなったのでした。

「自業自得」「将軍は犬死」と酷評されてしまった足利義教

足利義教木像(等持院)wiki

美貌の男色相手を赤松貞村を贔屓し、恐怖政治を続けてきた足利義教に対する反発心は相当強かったのでしょうか。義教に同情心は薄かったようです。

伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだなりしんのう)の日記『看聞御記』(かんもんぎょき)には、「(足利義教の死は)自業自得。将軍がこのような犬死をとげたのは聞いたことがない」

と、かなり辛辣な言葉を書き連ねていたそうです。

美少年好みの将軍の男色は、単なる男と男の恋愛関係、肉体関係のみならず、その時の政治を動かし、新しい文化を生み出し、戦さの原因にもなりと、歴史に大きな影響を及ぼしたのでした。

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