父から息子に引き継がれる「男色」の歴史!”絶世の美少年”と足利将軍たちとの関係【後編】 (2/5ページ)

Japaaan

義満が愛した世阿弥は能を演じる機会を奪われるなど、不遇な時代を迎え、晩年は佐渡に流されてしまいます。

父が築き上げたものをことごとく否定した義教ですが、男色の血だけはしっかり引き継いだのでした。

当時、仏教界では「男色」に寛容だった

長らく将軍不在となっていた幕府に第6代将軍として選ばれた足利義教は、将軍就任時は出家していました。元服前に出家したため、仏教の世界では天台座主にまでなったものの俗世での扱いは庶子と同じだったのです。

そのため、30をとうに過ぎた義教は還俗してから約1年後、ようやく征夷大将軍に就任することができたのです。

当時、仏教では男性の僧が女性と関係を持つことは厳しく禁じられていましたが、僧侶と若い稚児(剃髪しない元服前の少年修行僧)との男色関係には寛容でした。
もともと僧侶だった足利義教には男色・衆道は馴染み深かいものだったのでしょう。

稚児髷を結った牛若丸(鞍馬寺の稚児)月岡芳年画wiki

義教が愛した容姿端麗な若い武士

義教が愛したのは、赤松貞村(あかまつさだむら)。明徳4年(1393年)、赤松満貞の子で、非常に容姿端麗な武士だったそうです。

貞村は、妹が義教の側室となり男子を出産したことで義教に重用されました。

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