源頼朝と源義経、兄弟間の争いは後白河法皇のせい?悲劇の兄弟ゲンカの真相を探る (1/4ページ)
頼朝・義経の対立は後白河法皇が手引きした?
源義経(みなもとのよしつね)は、一ノ谷の戦いなど多くの合戦で源氏を勝利に導いた、平家打倒最大の功労者です。一方、兄である頼朝と対立して命を落とした、悲劇のヒーローとしても有名ですね。
通説では、両者の対立は後白河法皇が手引きしたとされてきました。鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』には、次のようにあります。
『天子摂関御影』より「後白河院」(藤原為信画・Wikipediaより)
平家滅亡が確実となると、法皇は源氏の力を削ぐために、義経に都の治安維持を担う検非違使の職と左衛門少尉の官位を与えた。
一ノ谷の戦いの恩賞に不満を抱いていた義経は、法皇の任官を受けてしまう。
これが、頼朝の逆鱗に触れた。頼朝の許可を得ない任官は源氏内で禁止されていたためだ。
こうして頼朝は義経を平氏追討の任務からはずし、源範頼に義経追討を命じた——。
以上の内容について、義経が頼朝の命により追討されたのは事実です。しかし事実として認められるのはその点だけで、そこに至る経緯は、現在はウソであると考えられています。
そもそも『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正当性を示すためにつくられた歴史書です。その点を考慮した研究によって、最近は記述の矛盾が明らかにされ、新たな視点が示されているのです。