武士の世が過ぎ去っても剣術に生きた、幕末・明治の剣豪・得能関四郎はなぜ自刃したのか (4/4ページ)

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関四郎はそのイメージに応えるためか、以来フロックコートを愛用するようになったのでした。

剣道界の権威となった晩年、そして自刃

得能関四郎(中央。左は三橋鑑一郎、右は内藤高治。画像:Wikipedia)

その後も活躍した関四郎は明治28年(1895年)10月、大日本武徳会の第1回武徳祭大演武会で奥村左近太(おくむら さこんた)に勝利。同会から第1回精錬証を授与されました。

明治36年(1903年)5月には大日本武徳会より第1回範士号を授与され、東都剣道界における三元老と称されます。

三元老の残り二人は真貝忠篤(まがい ただあつ)と根岸信五郎(ねぎし しんごろう)でした。

剣道界きっての重鎮となった関四郎ですが、明治41年(1908年)7月17日早朝、自宅の寝室で血みどろの遺体となって発見されます。

検死の結果、短刀で喉を掻き切り、刃の血を指で拭ってから鞘に納めて息絶えたことが判明しました。

遺書はありませんでしたが、関四郎は同年3月ごろから脳卒中を患っており、前途を悲観しての自刃と推測されています。恐らく数ヶ月にわたり、悩み抜いた果ての決断だったのでしょう。

享年67歳、遺体は青山霊園に葬られたのでした。

終わりに

今回は幕末から明治にかけて活躍した得能関四郎の生涯をたどってきました。

自刃を決断したのは、老醜をさらしたくなかったからでしょうか。

剣客としての美意識に共感する部分もありますが、やはり生命をまっとうして欲しかったとも思います。

幕末から明治維新後も活躍した他の剣客たちも、また紹介したいです。

※参考文献:

新人物往来社 編『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年10月

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