後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態 (2/4ページ)
上皇は佐渡に流され、幕府が名実ともに朝廷を上回る権力を手に入れることになったといわれています。
このように、上皇が計画的に幕府打倒を目指していたというのが通説ですが、現在この通説は否定されています。
上皇がいつ討幕を決断したかはよくわかっていないものの、実朝の存命中には武力蜂起の意志はなく、むしろ朝廷と幕府の融和を図ろうとしていたと考えられるようになっているのです。
実朝との親睦上皇の融和政策が失敗したのは、実朝が暗殺されたことが影響しているとみられています。
実は後鳥羽と実朝は、直接会ったことはありませんでした。それでも両者は親密な関係を築いていました。
例えば「実朝」という名前は、将軍就任にあわせて後鳥羽が命名したものです。建仁3年(1203)9月、実朝が12歳のときのことでした。
さらにその2ヵ月後には、後鳥羽は従姉妹を鎌倉に送っています。目的は、両者の婚姻関係を結び、幕府と朝廷の関係を強化することでした。
また、上皇は実朝に歌集を送るなど、朝廷文化を通じて友好的な態度を見せています。実朝も歌を送るほどに上皇へ信頼を寄せるようになり、都の文化への憧れを強くしていったふしがあるのです。
実朝がまとめた和歌集である『金槐和歌集』には、京への憧憬や将軍としての鬱積などが詠まれており、後鳥羽から影響を受けたとおぼしき歌も収録されています。