後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態 (3/4ページ)
後鳥羽からすれば、実朝との関係強化によって、幕府を間接的に支配する腹積もりもあったのでしょう。子がいなかった実朝は、上皇の息子を次期将軍にするつもりでした。
そのことについては、鎌倉幕府の有力御家人たちも、天皇の子であれば権威としては申し分ないとして、当初は歓迎していたのです。
後鳥羽上皇が幕政に関与した可能性は十分にあったと言えるでしょう。
幕府との確執しかし、実朝が暗殺されたことで融和策は無に帰しました。上皇は、自分の息子までもが殺されるのではないかと不信感を抱くようになり、鎌倉に将軍に出すことを忌避するようになります。
結局、将軍は幕府と関係の深い九条家から出すことになりました。
こうした融和策の失敗が引き金となって、後鳥羽は武力攻撃を決断したと考えられています。
なお、戦いに勝利した幕府は支配領域を西国にまで伸ばしましたが、北条氏は当初から朝廷を敵に回すつもりはなく、むしろ上皇との戦いを避けようとしていました。
御家人を団結させた北条政子も、演説で上皇への追及は徹底して避けています。また上皇が敵軍にいた場合の対応を聞かれた2代執権・北条義時も「武器を捨てて降伏せよ」と助言しているのです。