紫式部の夫・藤原宣孝の死因は何だったのか?ほか…大河ドラマ「光る君へ」7月28日放送振り返り
藤原宣孝(佐々木蔵之介)の急死により、シングルマザーとなってしまったまひろ(紫式部。吉高由里子)。一人娘の藤原賢子(福元愛悠)を抱えて途方に暮れます。
その窮状を察した藤原道長(柄本佑)が援助を申し出るも、無官の父・藤原為時(岸谷五朗)はこれを断ってしまいました。
一方内裏では四十の賀を迎えた藤原詮子(吉田羊)が病に倒れ、間もなく崩御してしまいます。藤原伊周(三浦翔平)の呪詛が効いたのでしょうか。
道長への復讐(逆怨み)を遂げんとする伊周は、清少納言(ファーストサマーウイカ)の記した随筆『枕草子』を一条天皇(塩野瑛久)へ献上。これが道長を苦しめる秘密兵器となるのですが……。
NHK大河ドラマ「光る君へ」第29回放送「母として」は、オリンピック中継をぶった切る形でいきなり始まったので、少し驚きました。
気を取り直して今週も、気になるトピックを振り返って行きましょう!
第29回放送「母として」時系列夫との死別を悲しむ紫式部。『枕草子』への対抗心が、まひろに筆をとらせた?(イメージ)
長保3年(1001年) 1月1日 一条天皇が御薬の儀を行う 1月2日 御薬の儀で藤原宣孝が後取を務める 2月5日 藤原宣孝が痔病により役目を辞退する 4月25日 藤原宣孝が卒去する 8月3日 敦康親王が藤原彰子の養子となる 10月6日 田鶴と巌君が陵王と納蘇利を稽古 10月7日 試楽で田鶴が陵王、巌君が納蘇利を演舞 10月9日 藤原詮子「四十の賀」本番。同日 一条天皇が納蘇利の師・多好茂(右兵衛尉)を叙爵 11月13日 敦康親王の着袴(袴を着ける。七五三みたいな儀式) 閏12月12日 藤原行成が藤原詮子を見舞い、宿直する 閏12月14日 藤原行成が藤原詮子を見舞う 閏12月16日 藤原伊周が正三位に復帰する 閏12月22日 藤原詮子が崩御する
今回は長保3年(1001年)の1年間が描かれました。
宣孝の最期に立ち会えなかったのは側室という立場上、その通りとは思いますが、あまりにもあっさりでしたね。
先週死にかけていた道長の夢枕?には立ったのに、宣孝の方には行かなかった?ようです。
宣孝の生命を奪った病とは、いったい何だったのでしょうか。以前、藤原行成の日記『権記(ごんき)』より、宣孝に関する記録を紹介していますので、詳しくはこちらをご覧ください。
紫式部の夫・藤原宣孝はなぜ亡くなったのか?死因はまさかの!藤原行成『権記』によると… 【光る君へ】ともあれATMもとい大黒柱を喪ったまひろ一家は、生活に窮したことでしょう。国司時代に少しでも蓄えておいたことを願うよりありません。
敦康親王が藤原彰子の養子に彰子と敦康親王。最初はおままごとのような母子だったが……(イメージ)
「敦康親王を人質に」
かつて亡き父・藤原兼家(段田安則)が使った手を道長に勧める詮子。
実際の道長なら言われるまでもなく実行したであろうことを、あえて周囲の差し金≒道長は仕方なく行ったとするのは、本作のお約束と言えます。
敦康親王を藤原彰子(見上愛)の養子にすることで、義理でも親王の外戚となる狙いがあるのは言うまでもありません。
もちろん彰子が皇子を産めばポイですが(実際そうしました)、万が一彰子が皇子を産めなかった場合でも恩を着せておくことは重要です。
彰子もまだ10代前半、おままごとのような養母子でしたが、彰子は敦康親王に愛情を注ぎました。
後に彰子が敦成親王(あつひら。後一条天皇)を産んだ後も我が子同然に可愛がります。
道長が敦成親王を皇太子に立てると、彰子は父と一条天皇を恨みました。
劇中ではまだぎこちない彰子と敦康親王が、親子の絆を育んでいく様子が今後の見どころとなるでしょう。
為時、再び無官に。受領功過定って?せっかく越前守になれたのに、任期満了の受領功過定(ずりょうこうかさだめ)によって「過(か。あやまちあり)」として任期継続ならなかった為時。
きちんと納税していたのに、宋人らを追い返せなかったことが理由とされていました。
真面目に善政をしいた設定(実際どうだったかは不明)なのに、つくづく仕事運のない人ですね。
この後も数年間にわたり官職は得られず、次の任官は寛弘6年(1009年)の左小弁を待たねばなりません。
左少弁(さしょうべん)は太政大臣の下に属する監督官(弁官)の下級ランクで、各官庁の勤務態度等を監督しました。堅物の為時には打ってつけかも知れませんね。
ところで受領功過定とは、律令制における考課制度を受け継いだもので、特に受領(国司)の勤務態度を考査するものでした。
かつての考課では任期中の政治姿勢を総合的に審査したと言いますが、受領功過定ではもっぱら「ちゃんと租税を取り立て、朝廷に納めたか」が評価されるようになったそうです。
劇中では為時がちゃんと納税していたと言及されていたので、実際の為時は別の理由で「過」とされてしまったのでしょう。
一度「過」認定されてしまうと、「過」が解除されるまで次の任官が叶わなかったというから大変です。
果たして為時は、どんな理由で「過」とされてしまったのでしょうね。
田鶴と巌君が舞っていた「陵王」と「納蘇利」とは劇中で田鶴(のち藤原頼通)と巌君(のち藤原頼宗)が舞っていたのは、雅楽の陵王(りょうおう)と納蘇利(なそり)。それぞれどんな舞なのでしょうか。
陵王は蘭陵王とも呼ばれ、北斉(6世紀の古代中国王朝)の蘭陵武王・高長恭の武勇を表現した舞です。
高長恭は大層な美貌の持ち主で、部下たちが見とれてしまうことと敵が侮ることを懸念して龍の仮面を着けて戦場に臨んだとされました。
そのため大人が舞う時は特徴的な仮面を着けますが、女性や子供が舞う時は着けないそうです。
一方の納蘇利(納曽利とも)は二頭の龍が遊び戯れる様子を表した舞と言われ、陵王の対として舞われました。
一人か二人で舞い、一人で舞う時は落蹲(らくそん。うずくまる意)、二人で舞う時は納蘇利と呼ばれます。ただし流派によって逆に呼ばれることもあるそうです。
宮中では競馬(くらべうま)や賭弓(のりゆみ)、相撲節会(すまいのせちえ)などに際して披露されました。左方が勝つと陵王、右方が勝つと納蘇利が舞われたと言います。
それにしても、子役の二人はよほど稽古されたのでしょうね。素晴らしい演舞に、母親ならずとも、つい目が細くなってしまうひとときでした。
第30回放送「つながる言の葉」夫を亡くした悲しみと向き合うため?それとも『枕草子』に対抗心を燃やしたため?まひろは物語の執筆を始めます。これこそ平安文学の最高峰『源氏物語』なのでしょう。
清少納言との友情に亀裂が入りそうな場面もあり、今後は対立関係になっていく展開が予想されます。
第30回放送「つながる言の葉」では宣孝の死から3年が経つそうですが、そろそろ彰子の女房として出仕するのでしょうか。
新たな展開に、次回も目が離せませんね!
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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