「桶狭間の戦い」に関するいくつかの誤解をただす!織田家と今川家の勢力はほとんど同じだった? (2/3ページ)

Japaaan

今川家が東海道と金山整備で財を増やしたように、織田家は水運業を経済の柱としていました。

織田家が支配下に置いた伊勢湾の津島港は、伊勢と三河を繋ぐ重要な商業航路でした。

この地を押さえた織田家は、船舶からの手数料徴収と交易事業で多大な富を得ていたのです。

信秀はこの利益を元手に朝廷への献金で影響力を強め、培った軍事力で幾度も三河に侵攻していました。

加えて尾張の濃尾平野は土壌が肥沃だったので、実質的な石高は今川家が領有する三国と大差はなかったという意見もあります。

そうなると、両家の国力は互角に近いことになるでしょう。

若き日の織田信長像

そもそも桶狭間の戦いに関して数々の誤解が起きたのは、一次史料が少ないからです。

織田家が動員できた人数でさえ、現在では議論の的になっているほどです。周辺国を警戒して兵を分散させていたという説や、そもそも通説よりも織田兵は多かったという説もあり、はっきりしたことはわかっていません。

そもそも奇襲ではなかった

信長が今川義元を奇襲で倒したという説にしても、実はすでに否定されています。

以前は、義元が休憩していると報告を受けた織田軍が今川本陣の背後に迂回し、豪雨に乗じて奇襲を仕掛けたとされていました。

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