【光る君へ】恋多き女性・あかね(和泉式部)と熱愛の恋人・敦道親王とは何者か?その生涯をたどる (3/4ページ)
ちなみに大宰府の現地に赴任することはなく、実務上のトップは大宰権帥(ごんのそち)が務めました。
やがて中関白・藤原道隆の三女を妃に迎えますが、相性が悪かったのか間もなく離婚してしまいます。
もしかしたら、中関白家の没落を悟って早々に切り捨てたのかも知れません。
後に藤原済時の娘と再婚、正妃に迎えます。
和泉式部との関係
しかし長保4年(1002年)に兄の為尊親王が薨去すると、その恋人であった和泉式部に懸想するようになったのです。
アプローチの末に長保5年(1003年)夏ごろから交際開始。同年12月18日には召人(めしうど。愛人)として自邸に連れ込んだため、正妃(済時女)は激怒。出ていってしまいました。
妻と愛人を同居させようなんて、尋常の神経ではありません。また事情を知りながら同居しようとする和泉式部も大概ではないでしょうか。
ちなみに和泉式部は為尊親王と不倫をした時点で父親の大江雅致(おおえの まさむね)から勘当されていたものの、夫である橘道貞(たちばなの みちさだ)とは離婚が成立していません。
ともあれ二人の間には男子が生まれ、岩蔵宮(いわくらのみや)と呼ばれました。のち出家して永覚(えいがく)と号します。
寛弘4年(1007年)4月に三品(さんぼん。三位)へ昇叙した敦道親王。しかし同年10月2日、敦道親王は27歳の若さで薨去してしまいました。