富士山に憧れすぎて…江戸時代、幕府の反対を押し切り富士登山を強行した大名・松平宗秀という男

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富士山に憧れすぎて…江戸時代、幕府の反対を押し切り富士登山を強行した大名・松平宗秀という男

みなさんは、富士山に登ったことがありますか?現在はインバウンドの影響もあり、外国人観光客が富士山に登るというニュースもよく耳にしますよね。

そんな日本国内・国外から人気を集めている富士山ですが、はるか昔、江戸時代の後期に富士山に登った松平宗秀(まつだいらむねひで)という幕臣がいました。

松平宗秀 肖像(Wikipediaより)

今回の記事では、松平宗秀に焦点をあててご紹介したいと思います。

松平宗秀と徳川綱吉のつながり

松平宗秀は江戸時代後期に生き、活躍した人物ですが、徳川家5代将軍である徳川綱吉と意外な接点があります。

徳川綱吉像(Wikipediaより)

それは、松平宗秀は丹後国宮津藩の6代藩主であり、本庄松平家9代なのですが、本庄氏は、綱吉の母・桂昌院の実家なのです(桂昌院の弟・本庄宗資が藩祖)。

本庄氏は、綱吉に取り立てられて大名となりました。以後、明治維新まで宮津藩の藩主をつとめた家系です。2代・資俊のときには松平姓も与えられ、幕府の中の要職をつとめるようになりました。

松平宗秀の生まれ

松平宗秀は、1809年(文化6年)4代藩主・松平宗允の三男として生まれました。彼が幼いときに父が亡くなったため、叔父をはさみ、1840年(天保11年)に家督を相続しました。

松平宗秀の幕臣としての活動

松平宗秀は寺社奉行として、井伊直弼のもとで働き、安政の大獄を行政化して処罰を行いました。その後もさまざまな役職に任命されては更迭や降格を繰り返す、激動の幕臣人生でした。

幕末においては旧幕府軍の一角を担い、鳥羽伏見の戦いで敗戦。明治維新後は、明治政府に恭順。その後、本庄松平家は華族となりました。

幕府からの反対を押し切って富士山に登る

富士山

幕臣として活動した人生は上り下りの激しいものでしたが、松平宗秀に関する興味深いエピソードがあります。それは、富士登山。

江戸時代には富士登山が流行しましたが、彼のような身分が高い人にはふさわしくないと考えられていました。

しかし、富士山への憧れがあった彼。

幕府に許可を願い出てから2年後、許されたのは「中腹」までの登山でした。しかし、それに従わずに、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に到着したという記録が残っています。

彼は、江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思った、ということは分かっていますが、具体的な理由はわかっていません。彼は、近世の大名で富士登山をした唯一の人物として名前が残っています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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