豊臣家と徳川家で板挟み状態!豊臣秀吉に見出された名将・片桐且元の波乱に満ちた人生

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豊臣家と徳川家で板挟み状態!豊臣秀吉に見出された名将・片桐且元の波乱に満ちた人生

日本史を代表する人物といえば、戦国の三英傑と呼ばれる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ではないでしょうか。そのうち、豊臣秀吉と徳川家康に大きく関わった人物の一人に片桐且元(かたぎりかつもと)がいます。

名将として知られ、戦争回避などに尽力した彼ですが、その人生は波乱に満ちていました。

片桐且元像 (Wikipediaより)

片桐且元の誕生、そして若年期

片桐且元は、1556年浅井氏配下の片桐直貞(かたぎりなおさだ)の長男として生まれました。小谷城の戦いをきっかけとして、浅井氏が滅亡すると、且元は豊臣秀吉(当時、羽柴秀吉)に仕官するようになります。

賤ヶ岳七本槍の一人として名をはせる

1583年、信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」が起きます。秀吉と柴田勝家の戦いで、秀吉が勝利。この戦いで特に活躍を見せた7人を「賤ヶ岳七本槍」といいますが、
片桐且元もそのうちの一人に数えられています。

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行政面でも強みを発揮

豊臣政権では、片桐且元は武将としてだけでなく行政面でも才能を発揮しました。京都の「方広寺」に大仏殿を建設することになった際も、且元は普請奉行(建設作業を監督する役割)に選ばれています。また、検地にも携わりました。

豊臣家と徳川家の戦争回避に奔走

関ヶ原の戦い以降、片桐且元は豊臣家と徳川家の調停役を担います。板挟み状態の且元が巻き込まれてしまったのが、「方広寺鐘銘事件」です。

滅亡はやっぱり豊臣氏のミスだった?あの方広寺鐘銘事件の最新の解釈は

且元が奉行を務めた際に一度完成していた方広寺の大仏と大仏殿ですが、地震で倒壊。再度建設が始まり、大仏殿におかれる梵鐘も完成しました。

しかし、この梵鐘に書かれていた文字が豊臣家を滅亡と導いてしまうのです。

方広寺の鐘楼

徳川家側は梵鐘の「国家安康」と「君臣豊楽」という文言が、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を喜ぶものだと言いがかりをつけてきます。且元は釈明のために徳川側に向かいますが、家康とは面会できませんでした。

あげく、且元は淀殿・秀頼からも徳川家との密通を疑われてしまいます。大坂城を去った且元は、家康に見方することになります。大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、且元も亡くなります。病気だったとも、自害だったとも言われています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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