破廉恥が過ぎる!四人がかりで稚児を辱めた平安貴族たちの男色エピソード【光る君へ 後伝】

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破廉恥が過ぎる!四人がかりで稚児を辱めた平安貴族たちの男色エピソード【光る君へ 後伝】

僧侶に女犯(にょぼん。女性と性交渉を行うこと)は禁忌ですが、男色については特に規定がありません。

もちろん欲望を断つという主旨を鑑みれば、性別に関係なく禁忌であることには違いないでしょう。

とは言えはっきり禁忌と僧侶たちの中には同性愛にふける者がおり、稚児(ちご。ここでは寺に仕える出家前の少年)らがその餌食にされることもありました。

そんな背徳感がたまらない?のか、外部の者が稚児を愛するケースもあったようです。

今回はやんごとなき貴族たちによる男色エピソードを紹介したいと思います。

乙犬丸へ贈り物競争

今回の加害者は以下の通り。

藤原資仲(すけなか。藤原実資の孫) 藤原経家(つねいえ。藤原公任の孫) 藤原行経(ゆきつね。藤原行成の子) 藤原能長(よしなが。藤原道長の孫)

超がつくほど有名人の子や孫たちばかり、そうそうたる顔ぶれですね。そして今回の被害者がこちら。

乙犬丸(おといぬまる)

彼は三井寺(園城寺)の前大僧正・永円(えいえん)に仕える童子でした。

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永円の子なのかは分かりませんが、誰の子にせよ行き先がないので寺に奉仕し、成長したら出家させる予定だったのでしょう。

乙犬丸はたいそう魅力的で、四人は彼の気を惹くためにこぞって贈り物を届けあったと言います。

「麿はこれを」

「ならば麿はこちらを」

「しからば麿は……」

それぞれ何を贈ったのか記録は残っていないようですが、乙犬丸が喜びそうなものを片っ端から贈ったのでしょう。

もちろん贈り物に対して、相応の「見返り」を求めたであろうことは、想像に難くありません。

なんてことが長暦3年(1039年)10月に発覚。永円や三井寺当局がどう思ったかはハッキリしないものの、恐らくは遠ざけたものと考えられます。

「本人のためにもよくありませんから、今後こういう贈り物『など』はご遠慮ください」

あるいは、それまで(贈り物目当てに)黙認していたけど、都合が悪くなったから手のひらを返した可能性も否定できません。

いずれにしても、乙犬丸を愛でられなくなった四人は、どうしたものかと考えます。

「「「「諦めるなんて選択肢はありえない!」」」」

もはや煩悩の塊と化した四人は、強硬手段に出るのでした。

乙犬丸を五節所で……

月をまたいで11月。豊明節会(とよあかりのせちえ)を前に、計画は実行されます。

豊明節会とは、神々に収穫を感謝する新嘗祭のフィナーレ。五節舞の奉納などが有名ですね。

「「「「せーのっ!」」」」

四人は三井寺から乙犬丸を迎えとり(ほとんど拉致状態?)、京都へ連れ帰りました。

そして五節所(ごせちどころ。豊明節会のスタッフルーム的な所)へ担ぎこみ、かわるがわる抱懐して伏した……つまり事に及んだと言います。まったくとんでもない連中ですね。

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「いやぁ楽しんだ楽しんだ」

「しかしそろそろ飽きてきたな」

「少し趣向を変えてはどうだろうか」

という訳で、今度は乙犬丸に命じて、五節所の陪従(べいじゅう)や童女に通嫁させました。

要するに自分たちはもう疲れたから、今度は乙犬丸に夜這いをかけさせ、その様子を鑑賞しようと言うのです。

まったく外道としか言いようがありません。乙犬丸は連中に対して、何か逆らえない弱みでも握られていたのでしょうか。

父が止めても馬耳東風

もちろん、こんな事を誰もが見逃す訳はありません。

「バカもん、ただちにやめんかっ!」

彼らを叱りつけたのは藤原資平(すけひら)。資仲の父で、藤原実資の養子です。

しかし彼らは馬耳東風、まったく耳を貸しませんでした。

「ほっといて下さい。我々は楽しんでいるだけであって、水を差されては興醒めではありませんか」

楽しむどころか、もはや乙犬丸は心身ともにボロボロだったのではないでしょうか。

その後も必死に叱りつけるも効果がなく、資平は自身の日記『春記(しゅんき)』に、
「一族の心ではない(≒とても血を分けた一族とは思えぬ、罰当たりな振る舞い)」
と書き記したのです。

ちなみに当時、実資は83歳でまだ存命でした。この頃にはもう日記『小右記』は書いていませんが、もし孫たちの暴挙を知っていたら、筆をとらずにはいられなかったでしょうか。

四人の基本データ

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藤原資仲(事件当時19歳)
治安元年(1021年)生~寛治元年(1087年)11月12日没
父:藤原資平/母:藤原知章女
正二位/権中納言まで昇る。

藤原経家(事件当時22歳)
寛仁2年(1018年)生~治暦4年(1068年)5月25日没
父:藤原定頼/母:源済政女
正三位/権中納言まで昇る。

藤原行経(事件当時28歳)
寛弘9年(1012年)生~永承5年(1050年)閏10月14日没
父:藤原行成/母:源泰清女
従二位/参議まで昇る。

藤原能長(事件当時18歳)
治安2年(1022年)生~永保2年(1082年)11月14日没
父:藤原頼宗/母:藤原伊周女
正二位/内大臣まで昇る。死後に従一位/太政大臣を贈られる。

若気の至りと言うのか、父祖の威光をもって本件に対する追及はもみ消されたものと思われます。

終わりに

なお乙犬丸については、その後どうなったか分かりません。

彼らに飽きられるまで慰み物とされたのか、逃げ出して野垂れ死んだか……どこかで生き延びて、幸せになって欲しいですね。

※参考文献:

倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月

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